20年前の剽窃問題
最新作『スープとイデオロギー』は2023年毎日映画コンクールでドキュメンタリー映画賞を受賞。現在も『ディア・ピョンヤン』『愛しきソナ』『かぞくのくに』など過去作品とあわせた特集上映が各地の劇場で続いているが、その作り手、ヤンヨンヒ監督を長きにわたって苦しめてきた事件がある。
韓国映画界で起きた前代未聞の不祥事をまず時系列で記す。それは1998年に起きた。当時、ニューヨークに留学中であったヤンヨンヒ監督は、韓国在住のホン・ヒョンスク監督の作品『本名宣言』が釜山国際映画祭でウンパ賞(最優秀ドキュメンタリー賞)を受賞したことを報道で知る。ヤンはこのホンの日本での撮影に協力し、市立尼崎高校の故・藤原史郎教諭の通訳などを請われるままに務めるなどしていたが、その後は完成試写も含めて何の報告もなかった。
やむなく自ら韓国から取り寄せた『本名宣言』のVHSテープを視聴して驚愕する。2年前にヤンがNHK大阪と共同で制作したドキュメンタリー『揺れる心』の映像が、9分40秒にわたって使用されていたのである。自分の姿が登場しているばかりか、ヤンヨンヒ監督が自発的に『揺れる心』の映像を送ったというナレーションが流され、エンド・クレジットにはまるで『本名宣言』のスタッフであるかのように「8mm取材ヤンヨンヒ」と記されていた。映像素材は、ホンから、在日コリアンを知るために参考として見せて欲しいと言われて貸していたもので、使用については何も聞かされていなかった。悪質な著作権侵害を到底看過できるものではない。
ヤンは自作『揺れる心』を、『本名宣言』に賞を与えた釜山国際映画祭とこれを報道した韓国メディア、映画業界団体に送り、剽窃の疑いを審議してほしいと訴えた。一目瞭然の証拠にすべては解決するかと思われた。ところが、釜山の審査委員会は「剽窃にあたらない」という声明を発表したのである。さらに自主映画(韓国では「独立映画」と称する)の監督たちが構成する韓国独立映画協会は、ヤンに対して、「韓国独立映画の名誉を傷つけた」と公式に非難声明を発信した。同協会はこの問題を唯一取り上げた「中央日報」に対しても、「保守紙が進歩的なドキュメンタリスト(ホン・ヒョンスクのこと)に対する言論弾圧を行い、表現の自由を侵害している」と、攻撃したのである。当時のヤンは「朝鮮籍」だったため、抗議をしようにも韓国に入国できなかった。
理不尽なことにそのままこの問題は放置されてきたが、22年が経過した2020年、在ソウルの女性プロデューサーが事件を知り、風化させてはいけないと『揺れる心』と『本名宣言』の比較上映会をソウルで催してくれた。
きっかけはホン・ヒョンスク監督のドキュメンタリー映画『境界都市2』(2009年)におけるスタッフ人件費未支給、及びエンド・クレジットの改竄について、この女性プロデューサーが問題提起したことである。これを知ったヤンヨンヒ監督が、韓国の映画雑誌「シネ21」に、1998年の剽窃問題についての寄稿文を送った。両者は繋がり、その後に比較上映会が開催され、人々は22年後になって初めてこの事件の真相を知ることになったのだ。
比較上映会には、商業映画の大物であるパク・チャヌク監督も参加していた。パルムドール受賞者(2004年『オールド・ボーイ』で受賞)はこの問題を深刻に捉えて、DKG(韓国映画監督組合)の理事会をすぐに開いて問題提起。事実を知った他の監督たちも憤怒した。
著作権問題だけならば、ヤンとホンの二者間で解決できたはずが、問題は釜山国際映画祭と韓国独立映画界が組織的にこの騒動を隠蔽し、問題をすり替え、矮小化を図ったことであった。98年当時、これを問題視しようとした独立系の映画人たちも、「中央日報」を糾弾する声明に賛同のサインまで求められていた。筆者は2023年6月、ホン監督と、当時、釜山国際映画祭の審査委員をしていたイ・ヨンベ氏、韓国独立映画協会会長のキム・ドンウォン監督に直接、当該問題についての取材メールを送ったが、未だに回答はない(キム・ドンウォン監督には『送還日記』が日本上映された際、筆者はインタビューまでしているので残念でならない)。
一方で、比較上映会後に韓国の若手ドキュメンタリー映画監督たちが作った集団「ドキュフォーラム2020」は、ヤンヨンヒ監督に対して強い支持と連帯を表明し、釜山国際映画祭に謝罪を求め続けている。
「朝鮮籍」
日本の外国人登録行政では、国籍欄に記載された「朝鮮」とは、朝鮮半島出身者という意味の出身地を表す記号とされ、朝鮮民主主義人民共和国の国籍を示すものではない。これは、在日朝鮮人が日本国籍を有するとされながら外国人登録令を適用され、その際国籍欄に、便宜的に出身地「朝鮮」が記されたことに拠る。1950年2月、GHQの指令で「韓国」に書換が可能となり、51年2月以降、出入国管理庁長官通達によって韓国のみが国籍表示となる。(和田春樹・石坂浩一編『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』〈2002年、岩波書店〉より)
忠武路
ソウルの一角。1955年に大型映画館「大韓劇場」が建てられて以降、映画会社や映画館が集まり、商業映画を象徴する地名となった。