なぜ韓国独立映画の歴史の中に彼女の『ナヌムの家』が重要な作品として言及されていないのか。なぜピョン・ヨンジュ監督が突然、ドキュメンタリーを撮らなくなったのか。多くの人たちは、彼女は商業映画を撮りたくなって変節したのだろうと言いましたが、そうではなかったことが分かりました。
ピョン・ヨンジュ監督は、直接この事件に関与したわけではないけれど、自分の人生に大きな影響を与えたとお話しされていました。
――剽窃されたヤンヨンヒ監督は当時ニューヨークにいて、裁判を起こすエネルギーもお金もなかったそうです。
キム ピョン・ヨンジュ監督はホン・ヒョンスク監督と話した後にヤン監督に電話し、「こんな韓国映画界で申し訳ない」と伝えたそうです。そしてキム・ドンウォン監督に電話をかけて「この事件については、無許可で映像を勝手に使用したホン・ヒョンスク監督がすべて悪い」とも話しました。キム・ドンウォン監督も最初は同意していました。ところが、ある段階から、急に態度を翻したのです。ヤン監督への攻撃に加わり、問題を隠蔽する側に回りました。
22年が過ぎ、ついにこの剽窃問題の真相が知れ渡ると、韓国独立映画協会のナン・ヒソプ氏は、当時釜山国際映画祭のプログラマーだったイ・ヨングァン氏(前・釜山国際映画祭理事長。今年になって辞任)とキム・ドンウォン監督がかつて、この問題については独立映画界でこれ以上議論しないでほしいと言及したことを暴露しました。
――キム・ドンウォン監督が変節したのですね。
キム キム・ドンウォン監督がなぜ、最初にピョン・ヨンジュ監督に会ったときと、韓国独立映画協会からの連絡を受けた後で態度を突然変えたのかはわかりません。いずれにしても、キム・ドンウォン監督は独立映画人たちから尊敬されていましたし、大きな影響力もあったので、『署名しろ』と言われれば、他の人々はやるしかなかったのです。
そのときの独立映画人にとって重要なのは、それまでは社会的に評価されていなかった韓国の独立映画が、98年の釜山映画祭においてホン・ヒョンスク『本名宣言』でウンパ賞を受賞したという事実でした。独立映画も大きな映画祭で賞を獲得できるという実績ができて、韓国独立映画協会にとっては、アウトサイダーの立場から表舞台に躍り出るという非常に重要な時期でもあったんです。
――98年は金大中政権時代で、ちょうど民主化世代がメインストリームに入ってきたころですね。386世代は、何が何でもホン監督に受賞させたかった。そのためにはヤン監督の告発はじゃまだったので、組織的に攻撃して、著作権を侵害された側であるヤン監督の声を封殺してしまった。釜山映画祭はその罪をまだしっかりとあがなっていないのですね。
キム はい。当時、韓国独立映画協会が「中央日報」に抗議し、この事件に対する声明文を発表したとき、独立映画界のすべての人たちがそれに賛同し署名しました。しかし、ピョン・ヨンジュ監督と、ピョン監督作品のプロデューサーであるシン・ヘウン氏の二人だけは署名しなかったそうです。問題の真実をしっかりと見据えていたからです。
――彼女がまだドキュメンタリーを撮っていた頃ですね。
キム はい。当時の韓国独立映画界では、絶えず屈辱的な経験をしたそうです。この事件はピョン・ヨンジュ監督にとって、独立映画との縁を一切断ち切り、商業映画を撮ることを決心させるきっかけの一つになったとおっしゃいました。
――世界的に評価されていたピョン監督がドキュメンタリーから商業映画へと移行していったのは、そういう理由があったからですか。
キム 私が思うに、問題なのは、「剽窃ではない」と書いた98年当時の審査委員たちと映画評論家たちです。実際に見たのか、あるいは作品を見比べもせずになのか、いずれにしてもどちらの側につけば有利かと、政治的にしか動かなかったのですから。
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映画界における大きな権力を前にしてもひるまずに過ちを過ちと指摘して声をあげ、業界を改革して行こうとする姿勢が韓国の若いクリエイターたちにはある。
キム・ドンリョン監督は問題を看過してきた勢力にも声をあげる。
◆【キム・ドンリョン監督が語る韓国ドキュメンタリー映画界の闇と光(後編)~若い世代の映画人たちの良心と、業界の自浄作用】に続く
「朝鮮籍」
日本の外国人登録行政では、国籍欄に記載された「朝鮮」とは、朝鮮半島出身者という意味の出身地を表す記号とされ、朝鮮民主主義人民共和国の国籍を示すものではない。これは、在日朝鮮人が日本国籍を有するとされながら外国人登録令を適用され、その際国籍欄に、便宜的に出身地「朝鮮」が記されたことに拠る。1950年2月、GHQの指令で「韓国」に書換が可能となり、51年2月以降、出入国管理庁長官通達によって韓国のみが国籍表示となる。(和田春樹・石坂浩一編『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』〈2002年、岩波書店〉より)
忠武路
ソウルの一角。1955年に大型映画館「大韓劇場」が建てられて以降、映画会社や映画館が集まり、商業映画を象徴する地名となった。