ミロシェビッチがユーゴ連邦内の各共和国の独立を認めずに人民軍を派兵したのは事実である。しかし、ユーゴ連邦側からすれば、国家内国家の建設は憲法違反であり、派兵は侵略ではなく内戦鎮圧のためであった。他国を侵略し、ヨーロッパ大陸を蹂躙したヒトラーと、ユーゴの国境外には一発も銃弾を放っていないミロシェビッチを意図的に同一視するのは憎悪煽動であり、フェイクであるというのがハントケの主張である。
これにはハントケの属性も起因する。彼の父親はナチスの党員であったのだ。拙著『終わらぬ「民族浄化」 セルビア・モンテネグロ』にも記したが、ほぼ5時間、食事や移動も共にしてハントケから話を聞き込んで感じた印象を言えば、原罪を抱えたこの作家の言説の本質は、ナチズムから独力で自らを解放したユーゴスラビアに対する敬意と、ユーゴ紛争において盛んに喧伝された「セルビア悪玉論」に対する憤怒だった。
未だに流布される「セルビア悪玉論」と、アンチ・ハントケ騒動
セルビアを擁護した影響は紛争終結後も根強く残った。ハントケと親交の深い映画監督エミール・クストリッツァに2004年にインタビューした際、この巨匠は、ハントケがノーベル賞を受賞する可能性はないだろうと答えていた。
「素晴らしい文学者だが、セルビア派とレッテルを貼られると受賞できない。今の欧州はそれだけ反セルビアなのだ」
クストリッツァもまたカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した『アンダーグラウンド』が、セルビア寄りだとして批判された過去がある。
そんな流れからすれば予想外ともいえるノーベル文学賞受賞であったが、ここでアンチ・ハントケキャンペーンは再燃した。
この問題に何が隠れているのか。可視化するために順を追ってみる。ノーベル文学賞受賞発表後、ヴィム・ヴェンダースやエルフリーデ・イエリネクはハントケ文学の卓越性を称賛して受賞を支持した。ヴェンダースは言わずと知れた映画『ベルリン天使の詩』の監督で、このとき脚本を書いたのがハントケである。イエリネクは2004年にノーベル文学賞を受賞しており、その小説『ピアニスト』はミヒャエル・ハネケ監督によって映画化されてカンヌ映画祭でグランプリを受賞している。
ハントケの作品に対する高い評価を知識人たちが下す一方で、ユーゴとの関わりについて批判する作家が出てくる。ボスニア出身のムスリム系作家のサーシャ・スタニシチは、2019年10月14日にドイツ書籍賞を受賞した際、自身のスピーチの中で、「ウソを文学で正当化する」(筆者訳)という言葉を使ってハントケを非難している。(3)
ハントケがジェノサイドを肯定したというウソ
このころ、ネット上ではハントケに対するさまざまなバッシングが巻き起こった。ひとつは、ハントケがミロシェビッチからユーゴスラビアのパスポートを受け取った、というもの。欧州におけるパスポートの二重取得は珍しいことではない。ただ、ユーゴのパスポートは、どこに渡航するにもビザが必要な、非常に利便性の低いものなのでむしろ誰も欲しがらない。ミロシェビッチを擁護した見返りというには無理がある。
より悪質なのは、ハントケがジェノサイドを肯定したというような思い込み、あるいはデマに基づくバッシングである。スウェーデン・アカデミーはこの事態を問題視し、異例の対応を行った。10月17日にマルムとルネッセンという二人の委員がスウェーデンの新聞に寄稿したのである。
「ハントケは著書『冬の旅 セルビアに対しての公正を』の中でスレブレニツァの虐殺を疑問視したり、否定したりはしていない。ハントケが虐殺を賛美した証拠は無い」「ハントケは政治的な問題で明らかに挑発的で不適切な発言を行ったことはあるが、われわれは彼の作品のなかに、市民社会を攻撃したり、すべての人が対等であることを尊重すること、それを疑問視するようなものは何も見出さなかった」
マルムとルネッセンは参考資料として2006年の南ドイツ新聞の記事を挙げている。ハントケはその中で「スレブレニツァの虐殺は、戦後ヨーロッパが犯した人類に対する最悪の犯罪である」としっかりと書いているのである。(以上、筆者訳)(4)
11月20日にはハントケ自らがドイツのツァイト紙のインタビューで以下のように答えている。
――ミロシェビッチの裁判や獄中の彼を訪問したのはなぜなのか?
「内的にも外的にも彼に頭を下げたことはなく、彼が語らねばならないことに耳を傾けようとした」
――ミロシェビッチの埋葬になぜ参列したのか?
「彼の埋葬はユーゴスラビアの埋葬だった。自分にとって、ユーゴスラビアは何か特別なものであった」小説『左ききの女』の中では、ドイツで差別されるマイノリティとしてユーゴスラビア人が登場している。
ハントケにとってミロシェビッチは「セルビア」ではなく、「ユーゴスラビア」の象徴であった。
「スレブレニツァの虐殺」
1995年、セルビア人共和国軍がボスニア東部の都市スレブレニツァを陥落させた後、都市に残っていた民間人男性7000~8000人を虐殺した。虐殺を指示したと言われるラトコ・ムラジッチは2017年にICTYにより終身刑の判決を下された。事件については立教大学教授、難民を助ける会理事長の長有紀枝氏による著作『スレブレニツア あるジェノサイドをめぐる考察』に詳しい。
ボスニア紛争
ユーゴスラビア紛争の一つ。1992年、ユーゴスラビアからのボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の独立をアメリカなどが承認したことから、ボスニアとユーゴスラビアの軍事衝突につながった。95年にデイトン合意によって終結。
「1968年世代」
西側諸国において、1968年から広がった学生運動の中心を担った世代のこと。
(1)
2019年10月12日付「CNN」(https://www.cnn.co.jp/world/35143896.html)
(2)
1999年8月11日付「World Socialist Web Site」(https://www.wsws.org/en/articles/1999/08/hand-a11.html)
(3)
2019年10月14日付「ORF」(https://orf.at/stories/3140837/)
(4)
2019年10月17日付「REUTERS」(https://www.reuters.com/article/us-nobel-prize-literature-academy/swedish-academy-defends-choice-for-2019-nobel-literature-prize-idUSKBN1WW1LC)
(5)
2019年11月20日付「ZEIT ONLINE」(https://www.zeit.de/2019/48/peter-handke-literaturnobelpreis-kritik-serbien-interview)
(6)
2019年10月16日付「朝日新聞デジタル」(https://www.asahi.com/articles/photo/AS20191016001940.html)