当連載の第14回、第15回、ではNATOが行ったユーゴスラビア空爆の20周年を祝う式典についてのルポを掲載した。コソボ政府によってその奉賀セレモニーが行われたのは2019年6月であった。そこから4カ月後、まるでその式典への“カウンター”のように、オーストリアの作家、ペーター・ハントケがノーベル文学賞を受賞した。カウンターと書いたのは、ハントケは、ユーゴ空爆を世界中の作家が――それこそスーザン・ソンタグも大江健三郎も――容認していた中で、唯一反対していた作家であったからだ。
案の定、スウェーデン・アカデミーによる発表の直後から、多くの欧米メディアがハントケの受賞を批判しはじめた。特に米国CNNから配信された言説は厳しかった。10月12日の記事では、「紛争当事国の関係者からは、『ジェノサイド(集団虐殺)否定論者』への受賞は『恥ずべき』ことだとの指摘も出た」として、コソボのシタク駐米大使とアルバニアのチャカイ外相代行による「ジェノサイド否定論者やミロシェビッチの擁護者を称賛すべきではない」、「この判断にあぜんとしている」というコメントをそれぞれ紹介している。
確かにハントケは、ユーゴ紛争終結後にICTY(旧ユーゴスラビア国際戦争犯罪法廷)に訴追され、2006年に獄死したスロボダン・ミロシェビッチ・元ユーゴスラビア大統領の弔辞を読んでいる。しかしCNNの書きぶりは、まるでハントケがユーゴ紛争における虐殺を肯定したかのようである。一方で「紛争当事国の関係者」によるコメントだと言いながら、当事国セルビア側のコメントは拾われておらず、そもそもアルバニアは当事国ですらない。あまりに一方的で粗雑な記事の構成であった。(1)
ユーゴ紛争から20年が経過した。ハントケの行動の真意は何か。そしてハントケへのバッシングは何を意味するのか。
ハントケはなぜユーゴ空爆を非難し、ミロシェビッチを擁護したのか?
コソボに対するNATO空爆の不当性について言えば、そもそもが国連を迂回して行われた、米軍主導による主権国家への軍事介入であったのだが、空爆後の統治にも問題が多かった。NATOが統治にあたって友軍としたKLA(コソボ解放軍)は当初、米国特使もテロリストと認定していた存在で、コソボ独立を唱える穏健派のアルバニア人たちからの支持も得られてはいなかった。私が1998年に取材したコソボのKLA支配地域では、山間ゲリラ兵士がカラシニコフを用い、野盗のような振る舞いをすることも多かった。モラルの低さはコソボの一般市民からも指摘されていたが、それでも米軍はこのKLAと組んだ。NATO空爆は、紛争終結や民族の融和のためというよりも、米国が傀儡国としてコソボを独立させることを目的としたもので、それに気づいている現地の調査グループもあった。
何より1999年当時の在ユーゴ日本大使館も「NATO空爆は不当である」と外務省に打電したと、関係者が証言している。それでも本省から返ってきた回答は「不当か正当かではなく、重要なのは日米安保なのだ」というものであった。大使館の調査員の無念さと悔しさを未だに聞く。そこにあったのは大義ではなく、政治であった。
ハントケは空爆そのものを批判すると同時に、これに同調する作家やメディアに対しても激しく攻撃を繰り返した。それによってハントケもまた非難を受け、中でもスーザン・ソンタグは、ハントケの作品は愛読していたが、「もう読むのを止めた」(筆者訳)と発言するに至った。(2)
ちなみに同じドイツ語圏のノーベル賞作家であるギュンター・グラスは当初、空爆に賛成していたが、晩年にこれを誤りと認め、撤回している。
西側メディアは空爆を容認する一方でミロシェビッチを絶対的な悪として断ずる言説が多いが、少しでもユーゴスラビアを取材したことがある者ならば、そんな単純なものではないことは理解しているであろう。
ミロシェビッチは決して狂信的なナショナリストではない。ボスニア紛争時には、後にスレブレニツァで住民の大量虐殺(いわゆる「スレブレニツァの虐殺」。連載第7回参照)を行うセルビア人指導者ムラジッチやカラジッチをいさめ、武装解除を薦めた人物である。ボスニア和平調停の調整役を担った明石康・元旧ユーゴ問題担当国連事務総長特別代表は、そのときの様子を「まるでやんちゃな学生を指導する大学教授のように知的で落ち着いた振る舞いだった」と述懐している。
米国は、ボスニア紛争停戦のためにボスニアの分割を提唱したデイトン合意(1995年)に応じたミロシェビッチを、かつては「平和の使者」と持ち上げていた。しかしコソボ紛争時には、反転してデモナイゼーション(悪魔化)して責め立て、公邸の寝室までピンポイントで空爆している。
私は2003年、ベオグラードでハントケに会った。この時、彼はこれらの不公正について何度も口にしていた。また「すべての民族が加害者であり、被害者であるユーゴ紛争において、彼だけを悪者にしている言説も、ICTYの裁定も不公正だ。ミロシェビッチを安直にヒトラーになぞらえるおかしなメディアの風潮を、私は作家として許せない」という発言も繰り返している。彼は文学的観点から、ICTYにおけるミロシェビッチの裁判を傍聴しているとも言い、「すべての被告は美しい」というカフカの言葉を引用してみせた。
「スレブレニツァの虐殺」
1995年、セルビア人共和国軍がボスニア東部の都市スレブレニツァを陥落させた後、都市に残っていた民間人男性7000~8000人を虐殺した。虐殺を指示したと言われるラトコ・ムラジッチは2017年にICTYにより終身刑の判決を下された。事件については立教大学教授、難民を助ける会理事長の長有紀枝氏による著作『スレブレニツア あるジェノサイドをめぐる考察』に詳しい。
ボスニア紛争
ユーゴスラビア紛争の一つ。1992年、ユーゴスラビアからのボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の独立をアメリカなどが承認したことから、ボスニアとユーゴスラビアの軍事衝突につながった。95年にデイトン合意によって終結。
「1968年世代」
西側諸国において、1968年から広がった学生運動の中心を担った世代のこと。
(1)
2019年10月12日付「CNN」(https://www.cnn.co.jp/world/35143896.html)
(2)
1999年8月11日付「World Socialist Web Site」(https://www.wsws.org/en/articles/1999/08/hand-a11.html)
(3)
2019年10月14日付「ORF」(https://orf.at/stories/3140837/)
(4)
2019年10月17日付「REUTERS」(https://www.reuters.com/article/us-nobel-prize-literature-academy/swedish-academy-defends-choice-for-2019-nobel-literature-prize-idUSKBN1WW1LC)
(5)
2019年11月20日付「ZEIT ONLINE」(https://www.zeit.de/2019/48/peter-handke-literaturnobelpreis-kritik-serbien-interview)
(6)
2019年10月16日付「朝日新聞デジタル」(https://www.asahi.com/articles/photo/AS20191016001940.html)