課題をしっかりと言語化して即答してきた。Jリーガーになるだけでなく、その先の目標を見据えた中長期のトレーニングを自らに課している。漠然とした夢というのではなく、緻密な未来への設計図を引き、自らに負荷をかけ、惑うことなく目標に向かう。
ミャンマー出身、認定難民の一家
大阪で同胞の難民への支援活動をするミャンマー人であるアウンミャッウイン(連載第20回参照)から、「難民認定を受けたバレーボールの元ミャンマー代表の友だちがおるんやけど、その息子さんが、今サッカーのプロを目指して大学でがんばっとるんや。一度見てあげてほしい」と言われて会いに来た。大学入学早々のコロナ禍でリーグ戦のレギュレーションも変わり、モチベーションが保ちにくい状況において、想像以上に高い意識でサッカーに取り組む姿勢に好感を持った。
「それは妹も同様です。コロナで会場には行けなったのですが、試合映像で妹が体を張ってプレーしているのを見て、自分もやらなきゃと思って……。彼女の活躍も刺激になっています」
マラには4歳下の妹、イェーモンがいる。イェーモンは父を継ぐようにバレーボール選手の道を選び、世田谷区の名門、北沢中学校でプレーして21年の全国大会で準優勝を果たしている。木村沙織、荒木絵里香ら日本代表選手を多く輩出した下北沢成徳高校への進学も決まり、すでに練習に参加している。彼女が目指しているのはもちろん日本国内のトップであるVリーグである。
「コロナが広まって大学でサッカーの練習ができなくなったときは本当にショックでしたが、自分の目指しているものは変わらないですから。いつでも準備して、プレーできるようにしておこうというのはお父さんとお母さんからも言われていました。お父さんも最初は大した選手ではなかったけれど、練習によって代表になったと言っていました。だからトレーニングができない期間でも、妹と二人で公園に行って、一緒に追い込んでいました。毎日、目標を意識して生活しようというのは家族みんなで心がけていたことです」
そして呟くようにこう言った。「4年後、兄妹そろってプロでプレーして、お父さんとお母さんを楽にしてあげたい」
ここまで聞いて、マラから言われた。
「僕の家は決して、特別な家ではないと思っています。スポーツをする子どもがいればそれを支える親がいる。そして親には恩返しをしたい。そういうことです。僕は自分の境遇が日本生まれの日本人と異なるということで、この記事を読んだチームメイトから、気の毒だとか、特別な目で見られることも嫌ですし、今まで通り、フラットにひとりの大学生選手としてつきあってほしいのです」
若き日の父とミャンマー民主化運動
マラの父親であるミャットゥの半生を遡りたい。ミャットゥはミャンマー西部にあるラカイン州で生まれた。仏教徒であり、民族の区分けで言えば、ラカイン人となる(ラカイン州のムスリムがロヒンギャである)。
バレー選手としては当初、地方出身者ゆえに無名であったが、たゆまぬ努力の末、ライトポジションのプレーヤーとして認められていく。成人すると身長も185センチに伸び、ヤンゴンでの代表合宿に招かれた。ナショナルチームに選出されると、国家に加護される境遇からの変化を好まず、自ら考えることをやめてしまうアスリートが多い中、ミャットゥは極めて公正な正義感を持ち続けた。
1991年の第16回東南アジア競技大会(フィリピン・マニラ開催)で、ミャンマー代表の旗手を務めるミャットゥさん(カウンゼンマラさん提供)
ネ・ウィン将軍による長期軍事独裁に対して、1988年8月8日に巻き起こった民主化運動(通称「88運動」)にミャットゥは現役代表選手でありながら、学生たちとともに参加する。88運動は特別な政治活動というよりも、反独裁の声をあげた国民的な大衆運動であり、ミャンマー全土でのうねりは、ネ・ウィン政権を退陣に追い込んだ。しかし、ソウマウン国軍最高司令官らによる軍事クーデターが9月に起こり、国家法秩序回復評議会(SLORC)が設置されると、国軍は武器をもって運動を鎮圧した。このときに数千人の学生が虐殺されている。
1991年10月14日、軟禁状態にされていたアウンサンスーチーがノーベル平和賞を受賞した。同日ヤンゴン大学では、学生たちがこれを記念する集会を立ち上げた。ミャンマー民主化の象徴が国際的に評価された事実は、多くの市民を勇気づける。集会も佳境に入ったそのとき、ミャンマー国軍の戦車やトラックの一団がなだれ込んできた。人々は銃と警棒で蹴散らされ、多くの学生が暴行を受けて逮捕された。
ミャットゥの身辺にも危機が迫っていた。危険なことに、大学卒業後に彼が所属させられたクラブは内務省のチームであった。内務省=警察、いわば国家権力の中枢のチームでプレーをしながら、ミャットゥは戒厳令下でも民主化運動を続ける学生たちを支援していた。当然ながら、公安局や軍事探偵はこの情報を得て、ミャットゥを監視し続けた。締め付けは厳しくなり、警察による拘束が秒読みという状況になっていく。1991年、ミャットゥは逮捕される直前に空路でマカオに逃れ、やがて日本に着いた。
東京でビルマ民族の女性と結婚し、マラが生まれた。かつてのバレーの英雄もミャンマーに帰国すれば逮捕と拷問が待っている。家族のために難民申請を続けるが、却下が続き、時間だけがいたずらに過ぎた。
サッカー少年に浴びせられた差別
日本生まれの日本育ちで、日本語も堪能なマラが小学校でいじめられたのは、黒い肌の色が原因だった。「お前は俺たちと違う」。子どもゆえの無知からか、心臓を抉るような残酷な言辞が日々、浴びせられ、無視もされた。家の中ではミャンマー語が使われていた。「もう学校には行きたくない」と泣くマラにミャットゥは言った。
「重要なのは肌の色ではない。実力を磨け。世界を見ろ。ネルソン・マンデラという偉大な人がいた。彼は肌の色が黒かったということで、何十年も刑務所に入れられていた。しかし、後に大統領になった。お前も実力で差別する子を見返してやれ」
ネルソン・マンデラ
1918~2013年。南アフリカに生まれ、若い頃から反アパルトヘイト活動に身を投じる。1964年に活動が原因で国家反逆罪に問われ、90年まで投獄された。釈放後は政治家として活躍し、93年にはノーベル平和賞を受賞。94~99年には南アフリカの大統領を務めた。

Jリーグでも各チームに一人しか所属が許されない
日本サッカー協会(JFA)の基本規定によれば、外国籍の選手のうち、日本で生まれ、学校教育法第1条に定める学校において、義務教育を受けている、もしくは義務教育を終了した選手、または学校教育法第1条に定める高等学校もしくは大学を卒業した選手であれば、チームに1名まで、外国籍の選手とはみなされずに登録できる。

