マラは小学2年生のときに転校してきた子と友だちになった。その子がサッカーを始めたので、同じチームである江東区のバディSC江東に入った。ミャットゥはそこで、あるGKの映像を息子に見せた。
「自分が小学3年生のときです。オリバー・カーン(当時のドイツ代表)のW杯のセーブ集をお父さんに見せられたんです。その瞬間に自分は衝撃を受けました。キーパーってこんなにかっこいいんだ。自分もあんな逞しい男になりたいと思って、それからはずっとGK一筋でやってきました」
元ドイツ代表、オリバー・カーン選手
父親ゆずりの運動神経でクラブのレギュラーになっていったが、差別がなくなったわけではなかった。ある日、マラは日本代表のレプリカユニフォームを着て練習に行った。サッカーをやり始めた子どもならば、誰もが憧れて袖を通すそれはマラにとっても大きなモチベーションに繋がるものだった。しかし、チームの仲間の一人がその姿を見て言った。
「お前はいくらそれを着てきたって、日本代表にはなれないんだぞ」
当時ミャットゥはまだ難民申請中であり、そしてマラは学校で否が応でも自分が日本人ではないことを意識させられていた。サッカーをプレーするときだけは公平な実力の世界だと子ども心に思っていたが、そこに浴びせられた心の無い言葉。
「でも僕は知っていたんです。今は日本人ではなくても国籍を取れば、ラモス瑠偉選手とか、三都主アレサンドロ選手とか、呂比須ワグナー選手みたいに日本代表になれるって。その子が言うことは、絶対そんなの間違っているって自分は分かっていたんです。だけど、言い返せずに本当にそのときは苦しかったです……。学校では相変わらず、肌の色のことを言われたり、仲間外れにされることもあって、つらかった。でもそこで自分を支えてくれたのはやっぱり大好きなサッカーでした。同級生がみんなで遊んでいる中で、よく自分ひとりでボールを蹴りに行きました」
自分は日本人ではないから、日本代表にはなれない。なぜ、自分はここにいるのか。そんな悩みをぶつけられたミャットゥはマラをJFAハウス(日本サッカー協会ビル)にある日本サッカーミュージアムに連れて行った。
サッカー殿堂入りの人物が展示されているコーナーを訪れると、そこに飾られているチョーディンの写真を見せた。
「これが誰か分かるか。日本サッカー殿堂入りしているこの人は、私たちと同じラカイン民族のチョーディンという。90年ほど前にビルマから日本にやってきて、日本の人たちにサッカーを教えたことで、ここで飾られているのだ。アジアのサッカーのレベルを上げたのは、我がラカイン民族だ。何を気にしているのだ。お前はそれをまず誇りに思うのだ」
大正時代にイギリス統治下のビルマから、東京高等工業学校(現・東京工業大学)に留学生としてやってきたチョーディンは、サッカーの母国スコットランド人仕込みの本格的なパスサッカーを日本の学生に教えた。後の日本代表監督となる竹腰重丸をはじめとする選手たちはその薫陶を受けて飛躍的に技術や戦術の理解を深めた。日本サッカーの父と言われたデットマール・クラマーが1960年にドイツから来日する、そのはるか前に築いた功績が認められて、2007年にチョーディンは日本サッカー殿堂入りしている。しかし、チョーディンがビルマからの留学生ということは、知られていたが、ラカイン民族であったことを認識している人は協会関係者も含めて果たしてどれだけいただろうか。
マラの気持ちはこのサッカーミュージアム訪問で確固となったと言える。ラカインの先人の偉業を知った。肌の色も属性も恥ずかしく思うどころか、誇るべきルーツではないか……。自分はいつか必ずプロに、そして日本代表になる。それは、差別を見返すというよりもチョーディンのようにこの国のサッカーに貢献したい、そして故国ミャンマーの人たちに自分たち民族でも日本のトップになれる姿を見てもらいたい、という切なる思いだった。
小学生のときから入管の書類を書く
生きていくためにプロになるという明確な目標がかたまり、バディSC江東でサッカーに向けて真摯に取り組み続けた。やがて小学生のマラは自分たち家族の法的地位に向き合わされていく。
父のミャットゥは難民認定のために何度も出入国在留管理局(入管)への出頭を求められていた。やがて認定されると、次は定住から永住に切り替える必要があった。すでに父よりも日本語が堪能になっていたマラは両親を連れて品川の東京入管に通い、必要な書類に記入した。
「小学4年生の頃、毎月更新に行っていました。在留するための書類が必要で、自分でもよく分からないんですけど、大人の人に聞いたり、一生懸命調べながら書いていました」
ザイリュウ、テイジュウ、コウシン、シュウロウ、等々、耳慣れない言葉を前にする度に10歳の少年は立ちすくんだが、それでも家族の中で日本語が最も堪能な自分が書くしかない。法律を調べ、そこで知ったのは、残酷な現実である。
難民申請が認められないままミャットウが長期収容されると、家族はどうなるのか。日本で生まれ育ちながらマラ自身も在留資格がなく、強制送還の対象となる。
「大変でした、あの頃は、家族みんなが苦しくて、本当に明日からもう日本にいられなくなるかもしれないと思うと怖かったです。せっかくサッカーでできた友だちと離れ離れになってしまうとか考えると本当に怖くてたまらなかったです」
GKとしての努力が認められ、小学校6年生でU-12東京都選抜に選ばれてドイツ遠征に行くことになった。日本のパスポートを持っていないマラは再入国許可証を申請するために東京入管に、またドイツビザを取得するために広尾の大使館まで何度も足を運んだ。
ネルソン・マンデラ
1918~2013年。南アフリカに生まれ、若い頃から反アパルトヘイト活動に身を投じる。1964年に活動が原因で国家反逆罪に問われ、90年まで投獄された。釈放後は政治家として活躍し、93年にはノーベル平和賞を受賞。94~99年には南アフリカの大統領を務めた。

Jリーグでも各チームに一人しか所属が許されない
日本サッカー協会(JFA)の基本規定によれば、外国籍の選手のうち、日本で生まれ、学校教育法第1条に定める学校において、義務教育を受けている、もしくは義務教育を終了した選手、または学校教育法第1条に定める高等学校もしくは大学を卒業した選手であれば、チームに1名まで、外国籍の選手とはみなされずに登録できる。

