「東の家」を運営するアリシャさん
「東の家」は、いわばロシアと東ヨーロッパの民主化運動の連絡と連帯の場と言えようか。東欧の草の根のつながりは、冷戦時代からあるが、ワルシャワにこのスペースが開かれたのは2017年である。母体になったのは、「カルタ」と呼ばれる「連帯」の内部組織。アリシャはその「カルタ」の創設メンバーであった。
「私と夫は活動を進めていましたが、1981年、当時の共産党第一書記だったヤルゼルスキ将軍によって戒厳令が敷かれるとすぐ地下に潜りました。そして忘れもしません、1982年1月4日から、『連帯』の新聞やビラの地下出版を始めました」
最初はたった一枚のカルタ(カード)に最小限のアジテーションと地下活動の案内を書くところからのスタートだった。だからこの名前になった。2022年でちょうど、40周年になる。
一枚のカルタから始まった運動は、今や国内外の民主化勢力との緊密なネットワークも持つ。
アリシャはロシアの人権団体「メモリアル」(註4)との長く深い交流を打ち明けた。
「『メモリアル』とは、もう30年間の協力関係がありました。カチンの森事件(註5)、捕虜のシベリア抑留など、スターリンによる戦争犯罪をともに研究した際、資料の提供などで協力を仰いだのです。彼らがロシアで収集したアーカイブをもとに、迫害された人たちのことをまとめた『インデックス』という書籍も出しました。だから今年(2022年)、1月28日に『メモリアル』の事務所が閉鎖させられたと聞いたときは、心底驚きました」
「メモリアル」を助けないといけない、彼らがワルシャワで活動できるように拠点を作らなくてはならない。アリシャたちは、『東の家』のプロジェクトをさらに加速させた。
「今、メモリアルの人たちもたくさん来ています」
「家」における対立
アリシャによれば、ウクライナ戦争の勃発によって約20万人がロシアから逃れており、ワルシャワには4000人ほどの亡命ロシア人が集って来ていると言う。
「それらの人たちを受け入れて、交流と支援を続けているのです。反プーチンのロシア人、反ルカシェンコのベラルーシ人と、このスペースで定期的に会議を開いています」
現在はどのような課題があるのだろうか。
「ウクライナから来た活動家の人たちは、ロシア人を排除しろと言ってきました。反プーチンであろうと、『メモリアル』のスタッフであろうと、もう彼らと同じ空気は吸いたくないというわけです。同じく、ルカシェンコ政権に対して激しい抵抗をしてきたベラルーシ人とも今は一緒にはやれないと敵視する動きが出てきました。各国の対話を進めてきたこの『家』が、今、政治的な対立のど真ん中にきてしまったわけです。しかし、あらゆる当事者、あらゆる関係者の声を聞くことをテーマにこのスペースを作った私たちは、誰かを阻害したくない。粘り強く、説得して同じテーブルにつこうとしています」
亡命ロシア人のジレンマ
ここでアリシャはオフィスにいた一人の中年男性を紹介した。
「家族がまだモスクワにいるので、記事にするならファミリーネームは書かないでほしい」と言った彼はユーリと名乗った。ユーリは亡命ロシア人の人権活動家だった。アリシャは「彼なら、今のロシア人の苦境を語れる」と言うのだ。
ユーリは開戦した2月24日にたまたまアルメニアにいた。モスクワには無いと言われたヨーロッパ型の新型コロナワクチンを接種するためであった。アルメニアやジョージアはロシア人がビザなしで渡航できる。ユーリはここでモスクワに帰ることを止めた。
「私は26日の帰国便のチケットを持っていましたが、帰国を断念しました。メモリアルも含めて、もう30年間人権運動をやっていましたから、帰れば確実に何かの処罰を受ける。それよりも国外で活動をしようと考えたのです」
アルメニアに残ることも選択肢にはあったが、ユーリはポーランドに向かった。
「関係を持っていたワルシャワの活動組織のひとつが、私の動きを支援すると約束してくれたからです。仕事を探し、滞在許可の申請もサポートすると言ってくれました。分かっていただきたいのは、戦争に協力したくないということで、20万人のロシア人がロシアから逃げたわけですが、多くの人たちは亡命先でも差別されて仕事すらもらえないのです。また合法的にその国の滞在許可を取得するのも非常に難しいのです」
30年間、人権活動をモスクワで継続し、国内でロシアの覇権主義をウォッチしてきたユーリは、今、ソ連崩壊後のロシアをどう分析しているのか。
「私はヨーロッパにおいて、『民主主義』、『主権国家の自立性』、そして『法治政治』に圧力をかけるものは一体何なのか、調査してきました。そういった脅威のほとんどがロシアから来ていると言えるでしょう。
ここ10~15年の間、ロシア政府は大量のプロパガンダを使って、周辺諸国へ向ける影響力を強化しました。私の組織は、主にベラルーシに重点を置いて観察していました。それは、ベラルーシが最初にロシアのこういった帝国的な政策のターゲットにされたからです。今のルカシェンコ政権を見れば理解してもらえると思います」
ユーリはワルシャワから、モスクワで闘う仲間への支援を始めているが、情報や教育が統制されているロシアでは、彼らは極めて困難な環境下にある。
「ロシアは今、戦時下検閲が行われていて、政府に対する批判の声、あるいは、戦争についての懐疑的な声はブロックされて、発言者は処罰されてしまうという状態です。SNSでさえ、戦争を戦争と呼ぶこともできないのです。連絡については、『Telegram』とか、『Signal』のような安全なインターネットアプリ、あるいは暗号化されたメールを使用しています」
ユーリはここまで話すと、少しだけ黙りこくった。そして絞り出すような声で苦境を語りだし、憐憫を誘った。
(註1)
「集団的に行われる略奪、破壊、虐殺行為」を指すロシア語。「ホロコースト」が主にナチス・ドイツによる殺害を示すのに対し、さまざまな地域で民衆によって行われたユダヤ人への暴力、迫害行為を示す。

(註2)
ポーランドを一党支配していた「統一労働党」に属さない組織として、1980年に設立された独立自主労働組合。初代委員長はレフ・ワレサ(ヴァウェンサ)。「連帯」の組織は全国に広がり、最盛期には1000万人近い労働者が加盟した。81年に政府が戒厳令を布告したことで多数の幹部が拘束されたが、残った組合員が地下活動を始め、政府への抵抗を続けた。

註3
レフ・ワレサ(ヴァウェンサ)…1943年生まれ。ポーランドの労働運動家、政治家。造船所の電気工として働いていた80年、物価上昇を機に起こった造船所との労働争議を主導し、政府から独立した自主的な労働組合「連帯」を政府に公認させた。「連帯」の初代委員長に選出され、「連帯」がポーランド全国に広がる中、80年代のポーランド民主化運動の中心的人物となった。83年ノーベル平和賞受賞。社会主義政権崩壊後、90~95年に大統領を務めた。

註5
第2次世界大戦中の1940年に、ソ連・スモレンスク郊外のカチンでポーランド人将校約4400人がソ連軍によって殺害された事件。他地域も含めて、全部で約2万2000人のポーランド人捕虜が大量虐殺された。ソ連は90年になるまで、ナチスドイツの仕業であると主張して、責任を認めなかった。アンジェイ・ワイダ監督がこの事件を題材に制作した映画は、邦題『カティンの森』。

註4
1987年に設立。ロシアにおける人権抑圧を調査・告発し続け、ウクライナ戦争に反対したことで、2021年12月にモスクワの最高裁に解散を命じられた。翌22年12月にノーベル平和賞を共同受賞。
