ハルキウからの避難民女性
スヴェトラーナ・コトリャーバはハルキウから逃れて来た。2月24日の午前4時に弟からの電話でたたき起こされたという。
「起きて!戦争が始まるよ!」
受話器を置いた次の瞬間、爆撃音が耳をつんざいた。団地のベランダから外を見るとすでに400メートル先にロシア軍の戦車が停まっていた。驚愕する間もなく、ハルキウの防衛に当たっているウクライナ兵が「ここは戦場になる。10分以内にこの場から逃げて下さい」と連呼しているのが、聞こえた。娘と一緒に車に荷物を積めるだけ積んでその場を離れた。不幸中の幸いだったのは、前日にガソリンを満タンにしていたことだった。
娘とハルキウから逃れてきたスヴェトラーナさん
6時間の渋滞を経て西ウクライナの都市テルノピリに向かい、しばらく滞在した後、ポーランドへ逃れることを決意した。入国に制限がかかっていないか、心配していたが、国境ではパスポートやIDを持っていない難民も通過が許された。東部の都市ルブリンに辿り着いた。
この町にある「ウクライナ難民支援センター」は、小学校を全面的に開放した施設で、体育館には、何世帯もの難民家族が生活している。スヴェトラーナは今、ここで寝起きしている。
「最初は学生寮に泊めてもらっていました。3食すべて食事も提供していただいた。こんな良くして下さるとは……」
行政機関で難民登録をすると、すぐさま18カ月の滞在と就労の許可をもらい、信頼できる雇用主のリストも受け取った。ソリストをしていた娘もまた音楽教師の仕事が見つかった。ポーランドで手厚い庇護を受けながら、それでも心はいつも故郷ハルキウにあるという。
「あなたが記者ならば、ハルキウについて言わせてほしい。ハルキウが今、ロシアとの東の国境を必死で守っている。ガスも水道も途絶えた中で、砲撃を受けながら、80歳の老人たちも一緒に戦っている。侵略が始まった日に私に電話をしてきた46歳の弟も出征しました。ハルキウが負けたら、すべてが終わるのです。ハルキウを助けてほしい」
弟さんは自ら戦うことを望まれたのですね、と問うと。強烈な怒気が返ってきた。
「好きで銃をとったわけではありません。非戦、反戦、逃げろ、と安易に言葉で言う外国人がいますが、それはこの戦争を知らないからです。戦わなければ、私たちはロシアにすべてを差しだすことになる」
ハルキウの「ウクライナ難民支援センター」は小学校を使った施設
戦車を描く子どもたち
イェレナ・ジヴァジンスティバは、ゼレンスキー・ウクライナ大統領が生まれた中東部の都市、クリヴィー・リフから、娘と孫と一緒に逃れて来た。開戦当初は銀行で働く娘の仕事を優先させて避難することを躊躇していた。しかし、クリヴィー・リフは軍事施設があったために集中的な攻撃に晒された。孫のキラを連れてシェルターに駆けこむ日常に、疲れ果てた。何より、幼児が教育をきちんと受けられないことを憂いて、親子三代での逃避行を決意した。リヴィウへ列車で脱出し、そこから出ていたルブリン行きのバスに乗った。
「バスの中ではキラが発熱していました。凄い高熱でもう私は生きた心地がしませんでした。けれど、ルブリンのバスターミナルに着いたら、そこにこの二人が救世主のように立っていたのです」
左から、パヴェルさん、イェレナさん、キラちゃん
傍らの学生を涙ぐみながら、紹介した。カミーラとパヴェル。ルブリンのマリー・キュリー・スクウォドフスカ大学(キュリー夫人大学)で教育学を専攻している二人は、ボランティアで難民支援活動を行っていた。
「彼らはすぐにキラを病院に運んで治療を受けさせてくれました。保険も医療費も何も必要ありませんでした。キラの命の恩人です」
献身的な看護で快復したキラちゃんは、話すそばから、勢いよくイェレナの背中に飛び乗って来る。
その命の恩人、カミーラとパヴェルが大切に保持しているものがある。キラちゃんを含む、この施設にいる子どもたちが記憶をもとに描いた戦争の画である。
「戦争犯罪の証拠として私たちは、これを保管しているのです」
(註1)
「集団的に行われる略奪、破壊、虐殺行為」を指すロシア語。「ホロコースト」が主にナチス・ドイツによる殺害を示すのに対し、さまざまな地域で民衆によって行われたユダヤ人への暴力、迫害行為を示す。

(註2)
ポーランドを一党支配していた「統一労働党」に属さない組織として、1980年に設立された独立自主労働組合。初代委員長はレフ・ワレサ(ヴァウェンサ)。「連帯」の組織は全国に広がり、最盛期には1000万人近い労働者が加盟した。81年に政府が戒厳令を布告したことで多数の幹部が拘束されたが、残った組合員が地下活動を始め、政府への抵抗を続けた。

註3
レフ・ワレサ(ヴァウェンサ)…1943年生まれ。ポーランドの労働運動家、政治家。造船所の電気工として働いていた80年、物価上昇を機に起こった造船所との労働争議を主導し、政府から独立した自主的な労働組合「連帯」を政府に公認させた。「連帯」の初代委員長に選出され、「連帯」がポーランド全国に広がる中、80年代のポーランド民主化運動の中心的人物となった。83年ノーベル平和賞受賞。社会主義政権崩壊後、90~95年に大統領を務めた。

註5
第2次世界大戦中の1940年に、ソ連・スモレンスク郊外のカチンでポーランド人将校約4400人がソ連軍によって殺害された事件。他地域も含めて、全部で約2万2000人のポーランド人捕虜が大量虐殺された。ソ連は90年になるまで、ナチスドイツの仕業であると主張して、責任を認めなかった。アンジェイ・ワイダ監督がこの事件を題材に制作した映画は、邦題『カティンの森』。

註4
1987年に設立。ロシアにおける人権抑圧を調査・告発し続け、ウクライナ戦争に反対したことで、2021年12月にモスクワの最高裁に解散を命じられた。翌22年12月にノーベル平和賞を共同受賞。
