「大きな問題として、今、ここで暮らす約4000人のロシア人は、侵略者として強い偏見に晒されています。私もプーチン政権に対抗して20年以上戦ってきましたが、受け入れられない。けれど、ウクライナ人が私たちと話をしたくないというのもわかります。彼らは今、ロシアからの侵略によって想像できないほどの苦しみに陥っているからです。ただ、他のヨーロッパの国の人々までが、同じようにふるまうのはフェアではないと思います。在外の多くのロシア人が、今、虐待されています」
ロシア大使館からは睨まれ、逃れた土地の民衆からもうとまれて差別を受ける。
「二重の圧力に苦しんでいます。それでも闘うしかないのです」
ユーリは、もう寄る辺のないロシア人が仕事をできる場所として、「東の家」に感謝していると何度も繰り返した。
プーチンと闘い、非戦を貫こうとする在外のロシア人たちも苦しんでいる。戦争は分断を生み続ける。
(註1)
「集団的に行われる略奪、破壊、虐殺行為」を指すロシア語。「ホロコースト」が主にナチス・ドイツによる殺害を示すのに対し、さまざまな地域で民衆によって行われたユダヤ人への暴力、迫害行為を示す。

(註2)
ポーランドを一党支配していた「統一労働党」に属さない組織として、1980年に設立された独立自主労働組合。初代委員長はレフ・ワレサ(ヴァウェンサ)。「連帯」の組織は全国に広がり、最盛期には1000万人近い労働者が加盟した。81年に政府が戒厳令を布告したことで多数の幹部が拘束されたが、残った組合員が地下活動を始め、政府への抵抗を続けた。

註3
レフ・ワレサ(ヴァウェンサ)…1943年生まれ。ポーランドの労働運動家、政治家。造船所の電気工として働いていた80年、物価上昇を機に起こった造船所との労働争議を主導し、政府から独立した自主的な労働組合「連帯」を政府に公認させた。「連帯」の初代委員長に選出され、「連帯」がポーランド全国に広がる中、80年代のポーランド民主化運動の中心的人物となった。83年ノーベル平和賞受賞。社会主義政権崩壊後、90~95年に大統領を務めた。

註5
第2次世界大戦中の1940年に、ソ連・スモレンスク郊外のカチンでポーランド人将校約4400人がソ連軍によって殺害された事件。他地域も含めて、全部で約2万2000人のポーランド人捕虜が大量虐殺された。ソ連は90年になるまで、ナチスドイツの仕業であると主張して、責任を認めなかった。アンジェイ・ワイダ監督がこの事件を題材に制作した映画は、邦題『カティンの森』。

註4
1987年に設立。ロシアにおける人権抑圧を調査・告発し続け、ウクライナ戦争に反対したことで、2021年12月にモスクワの最高裁に解散を命じられた。翌22年12月にノーベル平和賞を共同受賞。
