火を噴く機関銃や迫撃砲。戦車や戦闘機という単語さえ知らなかったであろう幼児が描いたテクノロジーの恐怖は、虚飾がなく、見る者に迫る。加藤直樹著『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(ころから、2014年)の装丁にある100年前の小学生が描いた朝鮮人虐殺の画を想起させた。
戦車と戦闘機が描かれている
画を示しながら、カミーラが言った。
「ここの子どもたちも就学の手続きを済ませるとすぐに学校や児童保育所に預けられます。その子たちにウクライナの言語や文化を教えるのもウクライナ難民の教師たちなのですが、私たちはあえてポーランド人のクラスにも入れていす。重要なのは、ウクライナ人の“ゲットー”を作らないこと。ヘイトクライムを防ぐ方法として、民族ごとに固まらず、子どもたちも交わることを意識しています」
ポーランドにおけるヘイトクライムの歴史
ここで、嫌というほど差別煽動の嵐に見舞われたポーランドの過去と、その象徴的な建物をひとつ紹介しておきたい。
首都ワルシャワの南、キェルツェという都市がある。第二次世界大戦が終結し、ナチス・ドイツが撤退した1946年7月、このキェルツェでヘンリク・ブワシチクという8歳の少年が、親に内緒で以前住んでいた町へ、友だちに会いに出かけた。夜になっても帰らず、心配した両親は警察に届け出た。少年は2日経ってひょっこりと帰って来た。叱られるのを恐れたのか、父親に「ユダヤ人に誘拐されて『ユダヤ人の家』の地下に監禁されていた」と話した。
市街にあった集合住宅「ユダヤ人の家」には約180人のユダヤ人が生活していた。キェルツェ市民ならば、誰もが知る施設であったが、さらに少年はそこに多くのポーランド人の子どもが拉致されていたと告げたのである。
この証言が伝播し、住民たちは武器を持って「ユダヤ人の家」に集まって来た。しかし、すぐにこの建物には地下室がないことが判明した。少年の言うことはデマであることが早々に周囲にも分かった。
ところが、そこから暴動が起こったのである。一度火がついた憎悪の感情は消し難く、警察、市民、軍人が建物に突入、ユダヤ人を引きずり出して、撲殺、銃殺の限りを尽くした。結果、42人のユダヤ人が殺され、数十人が負傷した。ナチス・ドイツではなく、戦後にポーランド市民によってユダヤ人は虐殺されたのである。このポグロム(註1)は、都市の名前から「キェルツェ・ポグロム」として、人々の記憶には残っていたが、共産党政権下のポーランドでは、この事件に触れることを長くタブーとされていた。
ようやく1989年に「連帯」(註2)が政権を取り、民主化に向けて動きだすと、大統領ワレサ(註3)が正確に記録として残すことを提案した。事件のプレートを「ユダヤ人の家」に掛け、以降、その歴史が語り継がれることになった。この「ユダヤ人の家」が今、ウクライナ難民のために提供されて、住居となっているのである。
「かつてデマによって分断と虐殺が行われた建物を今、隣国からの難民支援のために機能させようとしているのです。つまり過去を学んで未来に繋げていこうということです」とワルシャワ大学で教鞭をとるアンナ・オミ教授は言った。
「ユダヤ人の家」はその歴史を踏まえながら、今、「ウクライナ人の家」と呼ばれつつある。
各国の人々との「対話」をうながす「家」
コミュニティを表すときに「家」という概念をポーランド人はよく使う。ワルシャワには、通称「東の家」と呼ばれるスペースがある。運営しているアリシャ・グラウザに話を聞いた。
「ここはポーランド人とウクライナ人のみならず、リトアニア人、ロシア人、ベラルーシ人とも対話を進めるスペースとして存在しています。ポーランド以東の国の人々との対話をうながすので『東の家』なのです。何の対話か? まずは土台となる歴史的な対話です。
今はロシアが侵略したことで、ウクライナへの支援を真っ先に進めていますが、もともと私たちポーランドはウクライナとも大変難しい過去があるのです。過去の歴史の検証すべき問題をおろそかにすることはできません」
(註1)
「集団的に行われる略奪、破壊、虐殺行為」を指すロシア語。「ホロコースト」が主にナチス・ドイツによる殺害を示すのに対し、さまざまな地域で民衆によって行われたユダヤ人への暴力、迫害行為を示す。

(註2)
ポーランドを一党支配していた「統一労働党」に属さない組織として、1980年に設立された独立自主労働組合。初代委員長はレフ・ワレサ(ヴァウェンサ)。「連帯」の組織は全国に広がり、最盛期には1000万人近い労働者が加盟した。81年に政府が戒厳令を布告したことで多数の幹部が拘束されたが、残った組合員が地下活動を始め、政府への抵抗を続けた。

註3
レフ・ワレサ(ヴァウェンサ)…1943年生まれ。ポーランドの労働運動家、政治家。造船所の電気工として働いていた80年、物価上昇を機に起こった造船所との労働争議を主導し、政府から独立した自主的な労働組合「連帯」を政府に公認させた。「連帯」の初代委員長に選出され、「連帯」がポーランド全国に広がる中、80年代のポーランド民主化運動の中心的人物となった。83年ノーベル平和賞受賞。社会主義政権崩壊後、90~95年に大統領を務めた。

註5
第2次世界大戦中の1940年に、ソ連・スモレンスク郊外のカチンでポーランド人将校約4400人がソ連軍によって殺害された事件。他地域も含めて、全部で約2万2000人のポーランド人捕虜が大量虐殺された。ソ連は90年になるまで、ナチスドイツの仕業であると主張して、責任を認めなかった。アンジェイ・ワイダ監督がこの事件を題材に制作した映画は、邦題『カティンの森』。

註4
1987年に設立。ロシアにおける人権抑圧を調査・告発し続け、ウクライナ戦争に反対したことで、2021年12月にモスクワの最高裁に解散を命じられた。翌22年12月にノーベル平和賞を共同受賞。
