会場に生徒を連れて来ていた引率の教師に聞けば、国語の時間に四・三の悲劇を素材にした玄基榮(ヒョン・キョン)の小説『順伊(スニ)おばさん』を皆で読み、英語の授業ではこのジェノサイドをどう伝えるかを英作文し、美術の課題で四・三事件追悼のオブジェを作ったという。そしてこの引率者は化学の教師だった。中学校間の横のつながりも活発で、13校にわたる合同の生徒会では、早々に文化祭への参加が決定され、膨大な数の椿の造花が作られた。
朴槿恵(パク・クネ)時代には政府を批判する人物のブラックリストが作られ、監視されてきた芸能界からも動きがあった。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の親善大使でもある俳優のチョン・ウソンは、運動告知の旗振り役となり、歌手のイ・ヒョリは追悼式で詩を朗誦した。
市井の人々も自分たちの職場で機運を盛り上げた。ソウル市内のある焼肉店などはこの間、済州島の奉蓋洞(ポンゲドン)にある4・3平和公園に行ったことをSNSで発信したお客さんにはランチをサービスすることを宣言した。
韓国が今、東アジアの平和構築を担っている根幹には、朴槿恵前政権を倒した下からのパワーと、ナショナリズムを相対化する民衆の視点がある。ソウルでは4月20日から、ベトナム戦争の際の、韓国軍によるベトナム民間人虐殺に関する模擬的な民衆法廷が開催された。朴政権への抗議のためにキャンドルデモに参加したというある女性は今、必死にこの二つの事件を学び直そうとしていると語った。
「私は蝋燭を持って街に出たあのデモで社会を変えられることを知りました。妨害する人もいますが、もう恐れることはありません。韓国は民主化をして、そして過去の加害者としての清算もしないといけない。私は今まで四・三を知らなかったことを恥ずかしく思います」
20代から、家族のために家計を切り盛りしていた彼女は、経済活動に追われながらも立ち上がった。1988年生まれの彼女は名前をミンジュ(民主)という。盧泰愚の民主化宣言の翌年にそう名付けた両親、そして本人。二世代にわたるゆるがない意志の継続をまざまざと見せられる思いだった。
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三・一節
1919年3月1日、当時朝鮮半島を支配していた日本に対して起こった独立運動を「三・一独立運動」と呼び、韓国ではこの日を記念して「三・一節」と呼ぶ。
全道民
「道」は韓国の行政区分の一つ。済州島は1946年に全羅南道に属する郡から道に昇格した。2006年以降は済州特別自治道。
三・一〇ゼネスト
1947年3月10日に行われたゼネラル・ストライキ。島内160団体のほか、一部の警察官や軍政庁の官吏も加わった大規模な運動だったが、警察などによって鎮圧された。
カチンの森事件
第二次世界大戦中、ソ連が捕虜にしたポーランド軍の将校1万4000人あまりを虐殺した事件。1943年に大量の死体が発見された際、ソ連はドイツ軍による行為だと主張したが、90年代に入り、ソ連共産党およびスターリンの指示であったことを認め公式に謝罪した。
二・二八事件
第二次世界大戦後に台湾を支配した中国国民党による、民間人弾圧事件。1947年2月27日に起こった民衆の暴動をきっかけに、国民党が台湾へ軍隊を送り込んで弾圧を開始した。犠牲者は2万人以上におよぶとされ、90年代に入って公式な調査や謝罪、賠償が始まった。
光州事件
1980年5月18日、韓国南西部の光州市で起こった、学生や市民による大規模な反政府デモに対し、軍隊が出動して多数の死傷者を出した事件。
パンソリ
伴奏に合わせ、物語に節をつけて語る朝鮮民族の芸能。