祖母が『この今、食べているご飯を終えるまでせめて待ってもらえませんか』と言っても聞いてもらえなかった。そこから全部、村の男はみんな一緒に銃剣で刺されて殺されたらしい。従弟のお兄さんは新婚2日目で殺されました。遺体も昼には全部持ってくることができなかったので、夜に行って持ってきて…。お墓を作るのにも7年くらいかかりました。私が10歳のときにお墓ができたんです。父が殺されて数年経つと、今度は母が家を出て行きました。私と妹は捨てられて、いろいろな親戚の家族をたらいまわしにされました」
オさんに、その後はどのように生活をしてこられたのでしょうか、と訊いた。即座に断じられた。「生活? 私の人生に生活なんてものは無かった」
1日で殺された父親たちと、馬小屋で生まれた子どもたち
ヒョン・スルセンさん(女性)は事件のあった1948年に生まれた。この年に生まれた子どもには二つの大きな共通点があると言う。
「11月17日に済州道に戒厳令が敷かれて、翌日の18日には、山に近い中山間地帯で虐殺が起きました。そして家が全部燃やされたのです。だから身ごもっている女性は子どもを産む場所が無くて、皆、馬小屋に駆け込んで出産したと聞きました。私の母もそうです。11月18日には多くの父親が殺されました。だからチェサをやる日も同じ。馬小屋で生まれ、11月18日に親のチェサをやる。そんな同級生がたくさんいるのです」
戒厳令は全てを焼き尽くす焦土作戦をもたらした。生き残った者も家族の中で一人でも行方不明者がいたら、蜂起に携わった避難者の家族と見なされて代殺されたのである。
パク・ヨンオクさん(女性)は、国にはせめて父親の遺体の捜索と確認をやって欲しいと言う。
「父は済州で捕まった後、大田の刑務所に収監されたのです。その後、6月25日(注・1950年、北朝鮮軍の侵攻によって朝鮮戦争が開戦した日)に戦争が起きて、北のスパイということにされてしまって、他の人たちと並べられて全員銃で殺されたのです。アメリカ兵も韓国の警官もいたし、誰に殺されたのかは、分からないそうなのですが、国にしっかりと調べて欲しいです」
ヨンオクさんは、いつも夜が明るかった印象があるという。「夜は暴徒が襲ってくるから、みんなで村の集会所みたいなところにいつも集まって来て、焚き火を燃やしていたのです。暴徒は怖かった。竹やりで襲ってくるのです。こんなこともありました。ある日、集会所にひとりの女性が来たんですね。その人が警官の妻だということが分かった瞬間、周りの人の怒りを買ってしまったんです。牛の食べる飼い葉に彼女を投げ入れて、それに火をつけて燃やしてしまったんです」
極限に達した怒りは、官憲の妻に対する報復に向かった。
聞けば聞くほどに、抑えつけられていた言霊が、消されていた記憶が、立ち上がってくる。
済州4・3抗争70周年文化祭、夜のステージでは、パンソリの第一人者ペ・イルドンの演奏。そして犠牲者を悼むパフォーマンスが圧巻であった。演者は「ネイルムン(私の名前は)○○」と、それぞれに亡くなった犠牲者の名を名乗って次々に舞台中央に集まる。不可視にされていたもの、数や記号で語られてきたものに人格を与えたのである。
負の歴史を直視する力
この4月7日のソウルは、決して大げさではなくこれこそがデモクラシーだと感じさせられる空間であった。一部では確かに、追悼の催しを妨害しようとする右翼やヘイトスピーカーも参集はしていた。景福宮前では星条旗と太極旗、そしてイスラエルの旗を振って「文在寅(ムン・ジェイン)をモサド(イスラエルの諜報特務庁)に殺してもらいたい」「税金の8割が済州島に流れている」とわめきたてている女性がいた。「済州島特権を許さない」というわけである。では、その特権とやらは何で知ったのか?と聞くと、「インターネット」という。広場の脇では、平昌(ピョンチャン)オリンピックの南北統一チームを揶揄する集団もいた。しかし、それ以上に済州島の痛みを同じ人間として共有しようという寛容な空気がマジョリティとして満ち満ちていた。
もちろん、歴史に残る演説をした文在寅大統領がけん引したことは大きい。「済州道民と共に長らく4・3の痛みを記憶し、表現してくださった方々がいたおかげで、4・3は目覚めました。国家暴力によるすべての痛みと尽力に対し、大統領として改めて深く謝罪すると共に、深く感謝申し上げます」(「済州島4・3抗争70周年記念 講演とコンサートの集い 眠らざる南の島」パンフレットより引用)。
ただ一方でそれに呼応する市民のエネルギーを感ぜずにはいられなかった。
ソウル市内を流れる漢江の西側の中学校では、全科目を上げて四・三事件を学ぼうという試みがなされたという。
三・一節
1919年3月1日、当時朝鮮半島を支配していた日本に対して起こった独立運動を「三・一独立運動」と呼び、韓国ではこの日を記念して「三・一節」と呼ぶ。
全道民
「道」は韓国の行政区分の一つ。済州島は1946年に全羅南道に属する郡から道に昇格した。2006年以降は済州特別自治道。
三・一〇ゼネスト
1947年3月10日に行われたゼネラル・ストライキ。島内160団体のほか、一部の警察官や軍政庁の官吏も加わった大規模な運動だったが、警察などによって鎮圧された。
カチンの森事件
第二次世界大戦中、ソ連が捕虜にしたポーランド軍の将校1万4000人あまりを虐殺した事件。1943年に大量の死体が発見された際、ソ連はドイツ軍による行為だと主張したが、90年代に入り、ソ連共産党およびスターリンの指示であったことを認め公式に謝罪した。
二・二八事件
第二次世界大戦後に台湾を支配した中国国民党による、民間人弾圧事件。1947年2月27日に起こった民衆の暴動をきっかけに、国民党が台湾へ軍隊を送り込んで弾圧を開始した。犠牲者は2万人以上におよぶとされ、90年代に入って公式な調査や謝罪、賠償が始まった。
光州事件
1980年5月18日、韓国南西部の光州市で起こった、学生や市民による大規模な反政府デモに対し、軍隊が出動して多数の死傷者を出した事件。
パンソリ
伴奏に合わせ、物語に節をつけて語る朝鮮民族の芸能。