島民のある者は焼きごてで身体を焼かれ、ある者は生きたまま刃物で切り刻まれて殺された。人を人とも思わぬ残虐な行為の背景には、島に対する古くからの根強い差別意識の言われている。一方で武装隊も暴徒と化し、民間人を襲撃することがたびたびあった。申告された犠牲者のうち軍警討伐隊による被害が80%近くであるが、武装隊による犠牲も13%近くに達している(文京洙『済州島四・三事件』、岩波現代文庫)。
弾圧が終結する1954年9月までに人口の1割にあたる約3万人が虐殺された。本来、罰は犯した罪に科せられるものであるが、済州では朝鮮戦争の始まる前から休戦後まで長く、“アカ”の集会に行く者とみなされればそれだけで、正当な裁判もないままに潜在的な共産ゲリラとして殺されたのである。
米ソの対立によって朝鮮半島は北と南に分けられた。のみならずアメリカが反ソ、反共戦略を担う陣営としての使命を負わせようとした韓国にとって、“アカ”と認識された済州島の人々はソ連、北朝鮮に内通する敵と目される存在であり、そのために第二次大戦後最初のジェノサイドの対象とされたのである。
国家の罪
四・三事件の真相にメスを入れれば、アメリカの傀儡(かいらい)だった初代大統領・李承晩(イ・スンマン)は、朝鮮民族を分断した張本人、つまり民族に対する反逆者であったという結論に当然到達する。すなわち韓国という国の建国の大義を根底から問うことになり、それ故に韓国政府は長い間、四・三事件を歴史の闇の中に葬ってきた。
韓国における別の弾圧事件、全斗煥(チョン・ドファン)が大統領に就任する前年に起こった光州事件が、発生直後から国外で非難され、日本でも「光州を救え」という運動が立ち上がったほど問題視されていたのに対し、済州島の悲劇については、40周年にあたる1988年に追悼記念講演会が韓国YMCAで行われるのを待たねばならなかった。私が四・三のことを知ったのはまさにこの時であった。
他国に目を転じてみる。国家的タブーとされた虐殺事件と言えば、ソ連の「カチンの森事件」、台湾の「二・二八事件」などが挙げられるが、この二つでさえ東西冷戦の終結の後にオープンになった。一方で四・三は体制側から公に認められることはなかった。ハンナ・アーレントの研究で知られる崇実大学の金善郁(キム・ソンウク)教授は「四・三事件は米軍、韓国軍、北朝鮮からやって来た反共右翼団体の西北青年団……、加害の側も複数の勢力が絡まり合っていたことも、解明が一筋縄で行かなかった理由ではないか」と言う。
しかし、韓国民衆が血を流して勝ち取った民主化の流れの中でようやく、その支持を受けた大統領たちが公式に動き始める。1999年に金大中(キム・デジュン)が「済州島四・三事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」を作り、盧武鉉(ノ・ムヒョン)が2006年に初めて四・三追悼式に参加し謝罪した。
封印された悲しみ、「カラスも知らないチェサ」
この間、犠牲者の遺族たちは被害者でありながら、一切の沈黙を強いられてきた。蜂起した者と関係があると知られれば、“アカ”とみなされて白眼視される。連座で罪を問われ、公的な仕事に就くこともできなかった。
それだけではない。済州島は韓国の中でもとりわけチェサ(祭祀。先祖を供養する儀式のこと)を大切にする風土で知られる。しかし、済州四・三の遺族のチェサは「ガメモルンシッケ=カラスすら知らない」チェサ、と言われた。愛する人の弔いはひたすら目立たぬようにひっそりと執り行うしかなかった。
ガメモルンシッケ、この言葉を教えてくれたのは、ソウルで生活する済州出身者の会「特別済州道ソウル公民会」を運営するオ・ハングンさんという男性だった。50年前、19歳のときに首都に出て来るまではずっと島で農家の仕事に従事していた。
「四・三事件そのもののことも、身内で亡くなった者のことも全く話すことができなかった。警察官から、家族の中に四・三に関与した者がいないか、ずっと監視されていた。怖かった。思い出して語ってしまえば後難が来るから、記憶を自ら消すことばかり考えていた。四・三では、家族がどこへ連行されて、いつどこで殺されたのかも分からず、遺体を探すこともできなかった人がたくさんいる。そういう家では、亡くなった人の誕生日にチェサをしていた。夜の0時からね。だからカラスも知らないということだ」
家族を奪われ、生活も未来も失う
今回、文化祭には、そのチェサを累々と体験してきた遺族の方が、何人も参加していた。私はあたう限りその声を聴き、書き記すことに決めた。
オ・チョンザさんという女性は1942年生まれの76歳。当時19歳だった兄が犠牲になった。
「私は6歳でした。家にいたのですが、警察がやって来て長兄を連れて行きました。それきり帰って来ませんでした。それより前に、父も日本からの独立運動に身を投じて行方不明だったので、うちは男がいなくなってしまったのです。母が必死になって探したのですが、見つかりませんでした。四・三のときは子どもでしたから、何も分からなかったのですが、成人になるにつれてそれは話してはいけないこと、伝えてはいけないことと教えられました。家から警察に連行された者が出たと知られれば、末代まで公務員や軍人の仕事はできなかった。済州では身を立てる試験の前に、どの家族の娘か息子かというのを調査されて、もし四・三に関係があったら、受験の権利も資格も奪われたのです」
優しかったお兄さんの記憶が今でもぼんやりとある。しかし愛すべき人を追悼することができない。被害者であるのに差別が続く。その悲しさ、悔しさはいかばかりであったか。
オ・ヨンヒさん(女性)は、3歳のときに同様に父が連行されて殺された。
「父が食事をしていたところに怖い大人がやって来たのを覚えています。
三・一節
1919年3月1日、当時朝鮮半島を支配していた日本に対して起こった独立運動を「三・一独立運動」と呼び、韓国ではこの日を記念して「三・一節」と呼ぶ。
全道民
「道」は韓国の行政区分の一つ。済州島は1946年に全羅南道に属する郡から道に昇格した。2006年以降は済州特別自治道。
三・一〇ゼネスト
1947年3月10日に行われたゼネラル・ストライキ。島内160団体のほか、一部の警察官や軍政庁の官吏も加わった大規模な運動だったが、警察などによって鎮圧された。
カチンの森事件
第二次世界大戦中、ソ連が捕虜にしたポーランド軍の将校1万4000人あまりを虐殺した事件。1943年に大量の死体が発見された際、ソ連はドイツ軍による行為だと主張したが、90年代に入り、ソ連共産党およびスターリンの指示であったことを認め公式に謝罪した。
二・二八事件
第二次世界大戦後に台湾を支配した中国国民党による、民間人弾圧事件。1947年2月27日に起こった民衆の暴動をきっかけに、国民党が台湾へ軍隊を送り込んで弾圧を開始した。犠牲者は2万人以上におよぶとされ、90年代に入って公式な調査や謝罪、賠償が始まった。
光州事件
1980年5月18日、韓国南西部の光州市で起こった、学生や市民による大規模な反政府デモに対し、軍隊が出動して多数の死傷者を出した事件。
パンソリ
伴奏に合わせ、物語に節をつけて語る朝鮮民族の芸能。