1980年代後半、ソウル・オリンピックが終わっても、日本のパスポートで韓国に渡航する際には査証(ビザ)が必要であった。しかし、そんな時代でも唯一ノービザで行ける地域があった。それが朝鮮半島の南西に位置する済州島(チェジュド)である。韓国観光公社による外国人客誘致政策で、済州は南の楽園として売り出された。
「気軽に行ける韓国のハワイ」「冬でも温暖なリゾートアイランド」……済州島を彩るこれらのキャッチコピーを目にしたことがある日本人は少なくないだろう。現在でもハネムーンやカジノツアーでかなりの数の観光客が渡航している。けれど、その地における無残な歴史をどれほどの人が知っていただろうか。済州島の玄関口である国際空港の滑走路の下には、かつて裁判も受けずに虐殺された数百人の遺体が闇埋葬されていた。
韓国のタブー「済州島四・三事件」とは
歩いていると、70年間封殺されていた声が、至るところから聞こえてきた。
2018年4月7日、「済州4・3抗争70周年光化門国民文化祭」が、韓国ソウルの中心地、光化門(クァンファムン)で行われた。韓国の民主化の足跡を常に刻んできたその広場には、済州島四・三事件の犠牲者のシンボルマークとなった椿がそこかしこに飾られている。展示ブースには歴史を知らせる貴重な数値の資料が掲げられ、顔を出せば説明をする済州出身者の方言が被さる。犠牲者に対する追悼のための空間も設置され、光化門広場に隣接する大韓民国歴史博物館では「済州4・3 70周年記念特別展」が3月30日から6月10日まで開催される。
韓国社会最大のタブーとされ、長きにわたり、思い出すことすら禁断とされた四・三事件について、首都ソウルが街としての謝罪と反省を表明している様相だった。ソウルだけではない。全国的にも太田(テジョン)、大邱(テグ)、光州(クァンジュ)など20の地域で犠牲者を追悼するための焼香所が設けられた。
終戦後の朝鮮半島と済州島
韓国併合から36年間にわたり植民地支配を敷いていた日本が、1945年に降伏すると、朝鮮半島はアメリカとソビエト連邦(ソ連)によって南北に分割占領された。南に属する済州島は約7万人の日本兵が撤退後、今度はアメリカの軍政下に置かれ、島民に解放はもたらされなかった。信託統治への反発が高まり、政局が乱れ始めると、軍政は全国的に日本帝国主義時代の極右官吏を再び起用して朝鮮半島南部の弾圧支配を図ったのである。
済州島では、1947年3月1日に独立運動を記念する三・一節に参加していた民間人に対して、警官が発砲し、6人が死亡するという事件が起こった。しかし、米軍政の趙炳玉(チョウ・ビョンオク)警務部長は、これを警官側の正当防衛として不問に処した。事件自体を「北朝鮮との共同謀議」によるものと断じ、済州が「“アカ”(共産主義者)の島」であるというイメージを過剰にねつ造した。
済州四・三平和財団が発行する「済州四・三事件の理解」にはこう記されている。
「全道民の広範な三・一節記念式への参加と三・一〇ゼネストへの参加は、米軍政に済州道を『赤の島』と誤認させ、その後の済州は一方的な弾圧対象になってしまった。四・三への発火点において、済州人たちは孤立した小さな島の中で世界の冷戦の構図に基づき酷い犠牲を強いられることになった」
4月3日の武装蜂起から始まったジェノサイド
1948年、米軍政は、自らが統治する南朝鮮だけの単独大統領選挙をもくろみ、5月10日に強行しようとしていた。これを実施させれば、祖国の南北分断を認め、その固定化に繋がってしまう。朝鮮民族に対する反逆行為だとして、単独選挙には左派のみならず中道や右派も多く反対を表明した。済州島では長老たちが逮捕されていたが、4月3日に20代の若者を中心にした武装蜂起が起こった。武装隊は警察署などを襲撃した。とは言え、武器は旧式の銃火器が30挺あまりで他は竹やりや斧・鎌の類だった。これに対して米軍政は、軍人や警官に右翼団体を加えた討伐隊を差し向けて徹底的な武力弾圧を敢行した。
武装隊が山間地域に逃れてゲリラ化すると、弾圧は長期化。11月に戒厳令が敷かれると討伐隊はその矛先を無辜(むこ)な住民に向けて行く。この頃、「代殺」という行為が行われた。戸籍と照らして青年がいない一族に対しては、不在者は山に入ってゲリラになったものと見なし、その両親や妻子を代わりに虐殺したのである。
人間の尊厳を砕くように木に吊るしたり、衆人の見る前で身内同士の性交を強要したりした。
三・一節
1919年3月1日、当時朝鮮半島を支配していた日本に対して起こった独立運動を「三・一独立運動」と呼び、韓国ではこの日を記念して「三・一節」と呼ぶ。
全道民
「道」は韓国の行政区分の一つ。済州島は1946年に全羅南道に属する郡から道に昇格した。2006年以降は済州特別自治道。
三・一〇ゼネスト
1947年3月10日に行われたゼネラル・ストライキ。島内160団体のほか、一部の警察官や軍政庁の官吏も加わった大規模な運動だったが、警察などによって鎮圧された。
カチンの森事件
第二次世界大戦中、ソ連が捕虜にしたポーランド軍の将校1万4000人あまりを虐殺した事件。1943年に大量の死体が発見された際、ソ連はドイツ軍による行為だと主張したが、90年代に入り、ソ連共産党およびスターリンの指示であったことを認め公式に謝罪した。
二・二八事件
第二次世界大戦後に台湾を支配した中国国民党による、民間人弾圧事件。1947年2月27日に起こった民衆の暴動をきっかけに、国民党が台湾へ軍隊を送り込んで弾圧を開始した。犠牲者は2万人以上におよぶとされ、90年代に入って公式な調査や謝罪、賠償が始まった。
光州事件
1980年5月18日、韓国南西部の光州市で起こった、学生や市民による大規模な反政府デモに対し、軍隊が出動して多数の死傷者を出した事件。
パンソリ
伴奏に合わせ、物語に節をつけて語る朝鮮民族の芸能。