「インフレターゲット」を巡る議論も、これと同じだ。経済を巨大な旅客機と考えると、物価は「機内温度」に相当する。物価が上がりすぎるとインフレ、下がりすぎるとデフレとなり、経済活動に悪影響を与え、国民という乗客の乗り心地を悪くする。そこで、コックピットの副操縦士である中央銀行が、金融政策という空調を操作し、物価という機内温度を調整する。
インフレターゲットとは、中央銀行が物価の適正水準を「2%」、「5%」などと具体的に設定することだ。副操縦士が適温と考える機内温度を数字で示し、これを維持できるように空調システムを調節するというわけだ。
日本でインフレターゲットが議論の対象となっているのは、日本の中央銀行である日本銀行がその導入に難色を示しているためだ。日銀は「物価の安定」を掲げる一方で、数値目標は設けていない。「機内の温度を安定させます」というだけで、「20度に保ちます」といった具体的な温度を明示していないのである。
しかし、日本経済はデフレ、機内温度は「零下」になっている。デフレが止まらないのは、日銀の金融政策が不十分なためだ。インフレターゲットという具体的な目標がなければ、実行力も低下する。「寒い!」と機内温度に文句をつける乗客と同じ不満が、国内にくすぶっているのである。
だが、日銀はインフレターゲットの導入に慎重だ。本来、日銀を始めとする中央銀行は、物価の上昇を抑制する機能は持っているが、上昇させる機能は持っていない。中央銀行の空調システムは、暖房にもなるエアコンではなく、冷やすだけの「クーラー」。物価が上がれば政策金利を引き上げてクーラーを強くして冷やし、反対に下がれば引き下げてクーラーを弱めるが、物価を上げる直接的な機能はない。クーラーを停止する、つまり政策金利をゼロにした段階で、打つ手が無くなるのだ。
デフレが進行していることから、日銀はゼロ金利政策に加えて、いくつかの金融緩和策を打ち出している。旅客機の燃料であるマネーを大量に供給、これを企業や個人が活用することで、経済活動を活性化させ、温度を上昇させようという「量的緩和策」もその一つだ。しかし、これはあくまで物価を上げるための援護射撃であり、日銀が自ら温度を上げる政策ではないのだ。
日銀が自ら温度を引き上げる方法としては、直接株式や不動産を購入する方法が考えられる。デフレの主因の一つが不動産や株式の値下がりだ。これを止めるために、日銀がビルや土地などを購入して不動産価格を押し上げたり、株式を大量に購入して株価を押し上げたりといった政策を実行するのだ。資金は無尽蔵にあることから、物価がインフレターゲットに近づくまで継続することが可能となる。また、政府が発行する国債を直接購入するのも、物価を引き上げる有力な方法だ。これによって、政府は無制限に資金を手にすることになり、目標達成までデフレ対策を打ち続けることが可能となるのだ。
しかし、これらは極めて効果が強く、一歩間違えるとデフレから一転、猛烈なインフレになる危険性を秘めている。機内で石油ストーブをつけるようなものであり、扱いを誤ると機体が炎上してしまいかねないのだ。インフレターゲットが導入されると、その達成のために、より過激な金融政策を強要されることを日銀は警戒している。
イギリスやカナダの他、EU(欧州連合)でも類似のシステムが導入されるなど、インフレターゲットを採用する国が増えているが、その一方でアメリカでは採用されていない。重要なのはインフレターゲットの導入の可否ではなく、物価という機内温度をいかに適正に保つかということ。「寒い!」という乗客の声に応えてデフレを克服することが、日銀に課せられた責務なのである。