2013年6月4日、日本がサッカー・ワールドカップ出場を決めると、渋谷駅前のスクランブル交差点は、熱狂するファンで大騒ぎとなった。交通整理のために機動隊員が投入されたが、拡声器から流れてきたのは「皆さんは12番目の選手。日本代表のようなチームワークでゆっくり進んでください」というソフトなアナウンス。ユーモアを交えた誘導にファンたちは共感、素直に指示に従い混乱は解消された。後に「DJポリス」と呼ばれたその方法は、人々の良心にさりげなく訴えて、望ましい方向に導いたとして称賛され、警備のお手本とされるようになる。
「ナッジ理論」は、DJポリスの極意を、経済学に適用したものといえる。「ナッジ」(=nudge)は、「ひじで軽くつつく」という意味で、強制するのではなく、人々を自発的に望ましい方向に誘導する仕掛けや手法のこと。経済学者のリチャード・セイラー博士が提唱した、行動経済学の概念だ。
ナッジ理論を人々に知らしめたセイラー博士とキャス・サンスティーン博士の共著「Nudge」(邦題「実践 行動経済学」)の冒頭に出てくるのが、男子トイレの小便器に描かれた「ハエのマーク」のエピソード。使用者が無意識にこのハエを狙うため、床への飛び散り率が大幅に低下したという。「汚さないでください!」と、注意を促すのではなく、使用者の心理を巧みに利用するナッジによって、トイレがきれいになったのだ。
セイラー博士が提唱したナッジ理論は、経済政策からマーケティングまで、幅広い分野で応用されている。イギリスのデービッド・キャメロン前首相は「ナッジユニット」を設立し、ナッジ理論を政策に反映させた。その一例が税金滞納者への催促状。「早く納めてください!」ではなく、「市民の多くが期限内に税金を納めています」というメッセージを添えたところ、大幅な税収増が実現したという。アメリカのバラク・オバマ前大統領も、ナッジ理論の導入を求めた大統領令を出し、貯蓄率向上などの政策に応用された。
ナッジ理論は、心理学を経済学に反映させたものだ。経済政策には大きく分けて二つの考え方がある。人々の行動は必ずしも理性的ではないとの前提から、政府は国民に対して「あるべき姿」を示して強制的に導こうとするのが「パターナリズム」(=paternalism)だ。これに対して、人々の良心を尊重し、自主性に委ねるのが「リバタリアニズム」(=libertarianism)と呼ばれる考え方で、パターナリズムとは反対に、干渉しないが援助もしない放任主義だ。渋谷のサッカーファンに対して、「静かにしろ!」と怒鳴りつけるのがパターナリズム、自主性を重んじて見守るだけなのがリバタリアニズムで、両者の間で活発な論争が続けられてきた。こうした中、ナッジ理論は二つの考え方を、心理学を駆使して融合し、DJポリスのような大きな成果を挙げたのである。
セイラー博士は17年のノーベル経済学賞の受賞者となった。「心理学的に現実的な見込みを経済的な意思決定の分析に組み込んだ」、「限られた合理性と社会的選好、自己制御の欠如を探求することで、人間的な特性が個々の決定や市場結果に系統的に影響することを示した」というのが受賞理由。ノーベル賞受賞をきっかけに、改めて注目を集めるナッジ理論。これを機会に、「経済学のDJポリス」の極意を学んでみてはいかがだろうか。
ナッジ理論
[Nudge theory]