もし、企業の経理担当者がこうした行動を起こしたら、インサイダー取引で告発されるだろう。インサイダー取引とは、企業の株価を大きく左右する可能性のある情報を、経営者や従業員など、その立場上、公表前に入手できる者が、それを利用して株式を売買し、利益を上げようとすることだ。
株価は情報に敏感に動く。利益が大幅に増加したり、画期的な新商品を開発したという情報が出れば、株価は急上昇するし、製品に欠陥が発覚したり、談合などの法令違反が明らかになれば、株価の急落は避けられない。したがって、株価を左右する重要な情報を公表前に入手した者は、先手を打って大儲けをすることができるわけだ。
情報を巧みに利用し、巨利を得る。金融の歴史の上で、これを最初にやったとされるのが、イギリスの銀行家、ネイソン・ロスチャイルドだ。
時は1815年6月20日、イギリスはナポレオンとの天下分け目の大勝負、「ワーテルローの戦い」の渦中にあった。イギリス軍が敗れれば、イギリス国債は暴落、反対に勝利を収めれば暴騰する。勝敗は2日前の18日についていたが、その情報はまだ本国にもたらされていない。ロンドンの国債市場で、投資家たちがかたずをのんで政府の発表を待つ中、ロスチャイルドは、早馬や船などを独自に仕立て、政府よりも軍よりも早く、「イギリス勝利!」の情報を入手する。
この情報をロスチャイルドは最大限に利用する。イギリス勝利で値上がりするはずの国債を、なんと猛然と売り始めたのだ。自信に満ちたその行動に、ほかの投資家たちは、「イギリス軍は負けた! ロスチャイルドは知っているのだ!」と思い込み、われ先にと国債を売り始め、価格は暴落する。
この様子をじっと見ていたロスチャイルドは、たたき売られ、底値になった瞬間、一気に国債を買い占めてしまう。それは「イギリス勝利!」の報がもたらされる直前のことだった。ロスチャイルドの戦略にまんまと乗せられたほかの投資家は大損、一方でロスチャイルドは、投資資金を2500倍にするという空前の大儲けをしたのだった。
ロスチャイルドの行動は、インサイダー取引に該当するのだろうか?
ロスチャイルドが、政府や軍の関係者で、ほかの投資家よりも早く情報を入手できる立場にあった場合は、インサイダー取引となる。しかし、ロスチャイルドは、現地で得た情報を、より早く持ち帰っただけ。自らの立場を利用して、内部情報を得たわけではないことを考えると、インサイダー取引には問えない可能性が高い。
しかし、国家の一大事をネタに大儲けしたロスチャイルドに対しては、激しい非難の声がわき起こった。違法でなければ、何をしてもいいのか? こうした行動をきちんと取り締まらないと、市場のモラルが低下、正常な取引ができなくなるというわけだ。
インサイダー取引が禁止されるようになったのも、こうした歴史を踏まえてのこと。利益を追求するあまり、抜け駆けをしたり、情報を盗んだりといったことを防ぐのが、株式などの金融市場が正常に機能するためには不可欠というわけなのだ。しかし、その精神とは裏腹に、インサイダー取引の範囲は必ずしも明確ではないのも事実。このため、裁判で激しく争われることも珍しくない。
その典型が、村上ファンドの村上世彰前代表のインサイダー取引事件だ。「(重要な情報を)聞いちゃったと言われれば、聞いちゃった」と、当初は罪を認めていた村上前代表だったが、裁判では一転して無罪を主張、全面的に争う姿勢を示している。「皆さんが私を嫌いなのは、私が儲けすぎているからでしょう!」と、たんかを切った村上前代表の姿は、ロスチャイルドにも重なり合う。
法律の専門家の間には、今回のケースが本当にインサイダー取引に該当するのかどうか、疑問視する向きもあるが、村上前代表のようなやり方を認めてしまえば、株式市場、さらには社会のモラルまでもが低下しかねないという危機感が、検察当局にはあったのだろう。
株式市場で儲けたいと誰もが思う。しかし、アンフェアな行為が認められてしまえば、市場のモラルは低下し、無法地帯となってしまうだろう。インサイダー取引が規制されるのは、卑怯な手段を許さないためであり、市場の秩序を保つためには、必要不可欠なものなのである。