価格の上昇に備えて小麦粉を買い込んだものの、価格は予想外の下落。仕入れ値の高い小麦粉を大量に抱えることになった。小麦価格の下落に応じて、パンの売り値も下げざるを得ないが、在庫の小麦粉を使い切らなければ、価格の下がった小麦粉を買うこともできない。結局、「作れば作るだけ損が出る…」という事態に追い込まれているというのだ。
これが「逆ざや」だ。江戸時代の米取引で使われていた価格の差を示す「差也」から発生した言葉で、仕入れ値より売り値が低く、損失が発生する状態を意味する。
通常は、仕入れ値より売り値が高い「順ざや」となる。しかし、何らかの理由で仕入れ値より安い値段でしか売れない場合、これを「逆ざや」と呼んでいるのだ。
「逆ざや」は株式の売買などでも使われるが、生命保険会社の業績を示す場合に使われることが多い。
生命保険会社は、契約者から預かったお金を株式や債券、不動産などに投資し、運用益をあげようとする。生命保険会社は契約を結ぶ際に、この運用益の予想(予定利率)を立てて、保険料の割引額や、支払う保険金の額などを決める。予定利率が高ければ保険料はより安く設定でき、保険金の支払額も増やすことができる。反対に予定利率が低ければ保険料は上昇し、保険金の額は減少する。
予定利率は生命保険会社の「仕入れ値」、投資で得られる運用益が「売り値」で、その差額が利益となる。予定利率を2%に設定し、運用の利回りが5%だった場合、生命保険会社は3%の利益(利ざや)を得ることができる。これが「順ざや」の状況だ。
しかし、契約後に株価が急落するなどの理由で、運用益が1%に下落したとしよう。この場合でも生命保険会社は約束通り2%の予定利率を確保しなければならない。保険料の引き上げや、保険金の支払額の減少につながるだけに、契約期間途中での予定利率の引き下げは原則として許されないのだ。パンの売り値が下がったからといって、すでに仕入れてある小麦粉の値段を下げられないのと同じ理屈だ。
運用益が1%しかないにもかかわらず、2%の予定利率を維持すれば、生命保険会社には差し引き1%の損失が発生してしまう。これが「逆ざや」であり、生命保険会社はその損失の穴埋めを迫られることになる。
もちろん、新規契約分については、運用状況が悪化した場合には、予定利率を引き下げている。しかし、保険の契約は年単位の長期に及ぶ。そのため、契約時点では順ざやでも、その後に逆ざやに陥り、その状態が長期間に及ぶ恐れがあるのだ。
生命保険会社の予定利率は、バブル経済がピークだった1980年代には5%を超えていたが、バブル崩壊で運用益が激減、大幅な逆ざやが発生した。97年4月には日産生命、99年6月には東邦生命と、生命保険会社の破綻が相次いだが、その最大の理由が逆ざやだったのだ。
こうしたことから、経営破綻の瀬戸際に追い込まれた場合に限って、例外的に契約期間中でも予定利率の引き下げが認められるようになった。しかし、それ以外の場合は、予定利率の引き下げは許されない。このため、業界最大手の日本生命ですら、逆ざやを解消できたのは2008年3月期だったのだ。一度逆ざやに陥ると、生命保険会社は「針のむしろ」に長期にわたって座らされ、経営体力を失い続けることになるのである。
「針のむしろ」から解放されつつあった生命保険会社だが、再び経営環境が悪化してしまった。金融危機の影響で運用益が減少、09年3月期の決算では、大手9社が逆ざやに陥る見通しとなっている。
逆ざやがなかなか解消されず、苦しい経営が続く生命保険各社。売り値が下がっても、仕入れ値は高いままで、「作れば作るだけ損が出る…」というパン屋の主人と同じため息を、生命保険会社の経営陣もついているのである。