母親は、娘に対して「お嬢さんの時間を無駄にするな。私は奴れい(筆者注・奴隷)です」という誓約書を書かされていた――。
昨年(2023年)、札幌ススキノのホテルで頭部のない男性の遺体が見つかった事件で、逮捕・起訴された家族3人のうち、母親の裁判が6月4日に始まった。そこで弁護側、検察側が明らかにした家族の関係のいびつさに驚いた人も少なくないだろう。しかし、実はこれは決して特殊なことではない。ここまで極端ではないにせよ、同じような状況に陥って悩んでいる家族は日本中にいると思われる。
この事件では、娘(逮捕当時29歳)が殺人や死体遺棄などの罪で、精神科医である父親(同・59歳)が殺人や遺棄などを手助けした罪で、そして母親(同・60歳)は娘が被害者の頭部を自宅に隠し損壊することを手助けした罪で、それぞれ起訴されている。
冒頭に記したのは検察側の冒頭陳述の一部である。検察は娘が「家族の中で圧倒的上位者」であったとして、その状態を「娘ファースト(筆者注・冒頭陳述では娘の名前が入れられていた)」と表現した。ほかにも、両親は幼い頃から娘に何でも買い与え、中学時代に不登校を繰り返すようになってからもそうしていたこと、物を捨てると娘が怒り出すため、家は娘の持ち物で足の踏み場もなくなっていたこと、些細なことで怒り出す娘の機嫌を両親が常にうかがっていたこと、さらに娘は両親に自分を「お嬢さん」と呼び敬語で話しかけることを要求し、一方で娘は父親を「ドライバーさん」、母親を「彼女」と呼んでいたことなどが明らかにされた。
娘は精神科の受診歴があり、躁うつ病という診断名が下ったこともあったようだが、最近は定期受診はしていなかったという報道もある。ただ、どのような疾患であろうと、あるいは仮に継続的な受診が必要な疾患ではなかったとしても、家庭内を支配する娘に両親が隷従し続けるというこの生活形態に驚き、「なぜそんなことに」と疑問を抱いた人もいるのではないだろうか。
言い訳めいてしまうが、私はもちろんこの娘を診察したことも家族との面識もない。つまり、報道されている以上の情報は持っていない。その上で、この「子どもが家庭内の最上位に君臨してほかの家族が奴隷化する」という問題について、少し解説してみたいと思う。先に触れた通り、それじたいは実は決してめずらしいことではないからだ。
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一般的に私たちは一定の年齢になれば、たとえ親子、夫婦、恋人や親友どうしであっても「親しき中にも礼儀あり」を原則として接し合うようになる。
もちろん、恋人が「今夜は朝までキミを寝かさないよ」と情熱的に囁き、「明日は朝から仕事なんだけどな」と思いながらも「うれしい」と応じる、といった“逸脱”もときにはあるだろう。しかし、それも3度、4度となれば、言われた側は「ごめん。朝から会議だから6時間は寝たい」と誘いをやんわりと断るのではないか。そうすれば、誘った側も内心ではさびしく感じつつも「わかった。じゃ休みの前日にゆっくりしようね」と受け入れるはずだ。それが「親しき中」での礼儀、つまり親密な関係性においても存在するはずの“ゆるめの社会性”なのである。
ところが、この“ゆるめの社会性”すらいっさい通じないという状況が起きることがある。家族のメンバーの中にそれを許さない人がいる場合に起こりやすい。
最も想像しやすいのは、暴君タイプの父親がいる家庭だろう。父親が最上位に君臨し、妻や子どもがその指示や命令をきかなければ暴言、暴力などで押さえつけようとする家庭では、誰かが「いくら家族でもこんなのおかしいよ」と言っても通用しない。そのうち家族全員が「反発しても仕方ない。それよりも今日、殴られないようにしなければならない」と思うようになり、その構造が完全に固定化される。
ときには、別に声が大きかったり力が強かったりするわけでもない人が、家庭内で最上位に君臨することもある。その一例が、不登校や引きこもりなどの問題を持った子どもが、“王子様、王女様”の位置につくというケースだ。
子どもが学校に行かなくなると、多くの親はなんとか登校してほしいと願うだろう。学校だけではない。塾や習いごとでも同じだ。子どもが学校や塾を休みがちになると、親は毎日「今日は行くだろうか」と顔色をうかがい、「行ったら今夜はお寿司を食べに行こう」などのちょっとした“報酬”をちらつかせることもある。「クルマで送っていくよ」と提案する親もいるだろう。そういったことが常態化すると、次第に子どもの側から「●●してくれたら(あるいは、▲▲を買ってくれたら)行くよ」と条件の提示がなされるようになる。このとき「いや、それはムリだよ」と断ることができればよいが、行ってほしいあまりに条件をのんでしまうと、要求が次第にエスカレートしていくのは誰もが想像できるだろう。
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家族療法の専門家によれば、「子どもの今日の機嫌や振る舞い」が家族内の最大の関心事になると、家族のメンバー間の「自他の境界」が次第にあいまいになっていくのだという。そうなると、親は「好きにしなさい」と子どもと適切な距離をとることができなくなり、ますます過保護、過干渉になっていく。
家族療法の専門家から聞いた言葉で、「家族はガス抜きの穴もない圧力鍋のようなもの」というフレーズもある。どういうことかというと、たとえば、子どもが不登校になった自分にイライラを感じたとき、家族の誰かをスクリーン代わりにして自分の感情を映し出し、「お母さんがイライラしてるからこんなことになるんだ!」と怒ったりする。これは「投影」と呼ばれる心のメカニズムだ。こうした状態が続くと家族のどのメンバーも、いま感じていることが自分の思いなのか、それとも家族の誰かの思いを肩代わりしているだけなのかがわからなくなる。閉じた空間の中で、それぞれの感情や想像がどんどん煮詰まっていき、文字通りガス抜きできない圧力鍋の中のようになるのである。
とくに、子どもが極端な二面性を持ち、不安定で著しく衝動的なキャラクター(精神医学の分野では「境界性パーソナリティ障害」と呼ばれる)である場合は、次のような事態が起こりうる。このキャラクターの人たちは、すべてを「白か黒か」と二元的に思考しがちだという特性がある。他者(この場合は家族)に対して「ほれ込みとこきおろし」「賞賛と罵倒」といった相反する態度を取り、家族はそれに振り回されるということが珍しくない。とりわけ「こきおろし」と「罵倒」では言葉の限りを尽くして相手の言動、好みや生き方、価値観などまでをことごとく否定し、相手のせいで自分が苦しんでいる、というロジックを展開するので、言われた側は反論することさえ放棄し、ひたすら「申し訳なかった」とわび続けるような状況となる。それがたび重なることによって、子どもによる家族の支配はさらに強化され、家族は子どもにひたすら尽くす生活を強いられるようになる。
家族療法
編集部注:家族を一つのシステムとみなし、このシステムの中での関係を見つめ直すことで、問題を改善・解決しようとする精神療法