石田 じゃあ、ちょっと「純文学悪口大会」第2ラウンド開始で(笑)。純文学は人が死に過ぎじゃないですか?
鴻池 確かに。
石田 『ノルウェイの森』とか、すごい好きな作品ですけど、あれは結局何人が死んだんだ? みたいな。「名探偵コナン」ぐらい身近な人が死んでますよ。
鴻池 ははは(笑)、確かにそうかも。そういえば、石田さんの作品は人が殺されたり、死んだりしないですね。今後もそういうシチュエーションは書かない?
石田 いまのところはないかもです。
鴻池 それこそ、髙村薫さんの作品は人死ぬじゃないですか。
石田 そうですね。純文学の場合は、人が死んで悲しまなきゃいけないでしょ。その悲しみを書くのが、面倒くせぇなって。
鴻池 そんな悲しみ書かなきゃいけないこともないと思うけど。
石田 なんか「きょう、ママンが死んだ」みたいな。
鴻池 いや、あれ主人公悲しんでないじゃん(笑)。
石田 あの作品なんだっけ。カミュの『異邦人』か。そっか、あれは母親が死んでも主人公は悲しんでないや。じゃあ悲しみを書かなくてもいいのか(笑)。
鴻池 小説で人が死ぬとスカッとするじゃないですか。あと、小説じゃないと人殺せないじゃないですか。
石田 そうですね。捕まっちゃいますからね。じゃあ、次の作品で人殺すか(笑)。
鴻池 「我が手の太陽」に出てきた溶断を使って拷問するとかよくないですか。「ピシューッ」って身体を溶断する。石田さんの硬質な文体で書くといいですよ。「次は、膝から下に取りかかる」みたいな。凌遅刑(りょうちけい)に処す。
石田 ヤバい(笑)。書いているほうも怖いな。いや、なんか、人が死ぬとか、ストーリーとして安っぽいというか、小説の展開として、イージーだなと思ってしまうんです。
鴻池 すごくわかります。それに近いことで言うと、僕は小説の主人公を弱者にしたくないと思っているんです。「文学においては、自己を弱者と規定すると、とってもやりやすくなる」と三島由紀夫が対談で言っていたんですよ。
石田 おお、そうですか!
鴻池 デビューよりずっと前に読んだその三島の言葉がずっと残っていて、だから、僕も人が死ぬ話を書いても、いわゆる弱者を主人公にしたくないなと思っているんです。
石田 確かに。私もただ不幸な主人公は嫌ですね。そういう作品を読むのはいいけど、自分では書かないですね。
鴻池 なんかズルな気がしちゃうんですよね。読者に媚びてる感じというか。
石田 うん。「かわいそうでしょ?」みたいになりますもんね。
鴻池さんは、テーマでこういうのは書かないなっていうのはありますか?
鴻池 考えたこともなかったな……。あえて言えば、ポリティカルにコレクトなテーマでは書かないかな。あと、何らかの「イズム」に拠ったものはテーマにしたくない。
石田 なるほど。私は「家族」「恋愛」「友情」みたいなテーマでは書かないなと思うんです。なんか、やっぱり私はことごとく純文学っぽいテーマを書けないというか……。
鴻池 石田さんの中には確固とした純文学のイメージがあるんですね?
石田 あると思います。
鴻池 それは石田さんにとってポジティブなものじゃないんでしょうね。
石田 そうですね。テーマもそうですけど、〝純〟なはずなのに、〝不純〟なこともけっこうあって。これは、文芸業界あるあるかもしれないですけど、某文学賞を目指すために上半期までに作品をください~とか、めっちゃ〝不純〟じゃねぇか! みたいな(笑)。人の期待に応えるとか、何かの目的のために書くのは純文学じゃないと思うんです。
むしろ、読者や業界も気にしないで、ポジティブな意味で、独りよがりに書いてできた小説を〝純文学〟と呼ぶんじゃないですかね。
鴻池 最後にとてもいい意見が聞けました。今日はありがとうございました。