これでは、「無差別」が少々かわいそうだと思います。無差別というのは、要するに差別が無いということです。相手によって態度を変えない。扱いを変えない。分け隔てなくすべての相手を平等に取り扱う。それが「無差別」という言葉の本来的な意味内容です。ところが、このごろ、この語感で「無差別」があまり使われなくなっている。新聞紙面上などでも、あまりこの用法をみかけないように思います。これはどうしたことでしょう。
「無差別」を、その本来の意味で使っている事例が一つあります。皆さんはWTO(世界貿易機関)をご存じでしょう。このWTOの基本理念の中に、本来の意味での「無差別」が織り込まれているのです。自由・無差別・互恵。これがWTOの三原則です。相手を選ばず区別せず、一律に貿易を自由化することで、お互いに恩恵を施し合う。これが「自由・無差別・互恵」原則の意味するところです。
WTOの無差別原則としばしばセットで語られるのが、「最恵国待遇」というもう一つの通商概念です。その意味するところは、読んで字のごとしです。要するに、相手を最高級の取り扱いで遇するということです。そして、WTOはそのすべての加盟国がすべての相手に対して、分け隔てなく最恵国待遇を適用することを求めています。「最恵国待遇の無差別適用」ということです。この理念を軸に、第二次世界大戦後の通商秩序が構築されました。差別的貿易取り決めによって、世界が保護主義的要塞(ようさい)群に分断されていく。そのような事態となることを回避するための共通認識として、「自由・無差別・互恵」の理念が打ち出されたのです。この理念を分かち合う約束から、今日のWTOに至る戦後の歩みが始まりました。
さて、ここで今日の現状をみてみましょう。通商の世界で、今、何かと注目の的となっているのが、いわゆるTPPすなわちTrans Pacific Partnership、すなわち環太平洋パートナーシップ協定です。日本政府は、この協定がもたらす貿易自由化圧力を恐れながらも、それに仲間入り出来ないことを怖がって右往左往しています。ですが、上記のWTO理念に照らしていえば、TPPは明らかに差別的協定です。その内側と外側を区別しているのです。いかに包含する領域が広かろうと、無差別原則に反していることには変わりありません。
現実問題として、取り残されていくことのロスが大きいという焦りはわかります。ですが、それはそれとして、本当にこれでいいのかと、グローバル世間に問いかける姿勢があってもいいのではないでしょうか。成り行き的にではありますが、日本はこれまで概してWTO主義に忠実に行動して来ました。その日本から、差別的貿易協定の蔓延(まんえん)に対して、警鐘のせめて一言があってもいいのではないでしょうか。
ところで、TPPのフルネームは環太平洋戦略的経済連携協定です。前々回の本欄で「戦略待望論が気掛かりだ」と書きました。あの「戦略」の一言が、ここにも顔を出しているのです。そして、いつの間にかTPPから「戦略的経済連携」の部分が切り落とされて、単なる「パートナーシップ」協定という表現に統一されました。なぜでしょうか。「戦略的連携」のニュアンスが我々に警戒感をもたせることを恐れてのことでしょうか。これまた、気掛かりなことです。