すると、やっぱり違っていました。そこはイタリアだったのです。ローマでミラノでシチリアで。買春疑惑男のベルルスコーニ首相に対して、人々の「バスタ」(もうたくさん)の声がとどろき渡っていたのです。イミダスご愛顧の皆さんに敢えてご説明申し上げるまでもないと思いますが、このおじさんは、一国の首相というポジションを有権者から与えてもらっていながら、17歳のモロッコ女性を相手に買春に及んだ容疑をかけられているのです。デモの先頭に立ったのは女性たちです。彼女たちのパワー全開ぶりには、大いに喝采(かっさい)を送りたいと思います。ただ、その一方で、れっきとした民主主義国家の政治主導者が、こんな形で市民たちに引導を渡される体たらくには、ひたすら唖然とするほかはありません。
イタリア津々浦々のピアッツァ(広場)に結集した女性たちは、実際にエジプトやチュニジアの市民蜂起にインスピレーションを得たそうです。さぞや、そうだろうと思います。素晴らしいことだとも思います。
それはそれで大いに結構ですが、それにしても、あのやりたい放題男を撃退するのに、イタリア人たちは、本物の独裁者たちと命がけで戦う中東・アフリカの人々からの刺激を待つほかはなかったのかという思いも募ります。それもさりながら、本物の独裁者たちにも等しい暴挙に及ぶやからが、なぜ、かくも長くイタリア政界の中枢部に君臨し続けたのか。改めてこの事態の異様さに思いが及びます。
イタリアというのは、つくづく奇妙な国です。偉大な思想家や精緻(せいち)な理論家を次々と生み出しながら、驚くべき無節操さがまかり通る面がある国です。そこが面白いといえばその通りなのではありますが、さすがにベルルスコーニ首相まで来ると、面白いだけでは済まされません。だからこそ、人々が立ち上がったわけでもあります。面白さと真剣さの微妙なバランス。この均衡点に関する皮膚感覚あってこそ、イタリア式の生き方に味があるというものです。身もふたもないえげつなさには、鉄槌(てっつい)が下って当然です。
イタリア・オペラの喜劇的名作に「アルジェリアのイタリア娘」というのがあります。独裁者の下にさらわれて来た生粋のイタリア娘が、その機転で専制君主を手玉に取る話です。自分の恋人は窮地から救うは、性悪の専制君主のお妃様に、そんな男の成敗の仕方は教えるは。その向かうところ敵無き知恵と勇猛さは、大変なものです。そんな彼女に、専制君主は理想の男性とは「ひたすら黙って食べている」ものだと言われて、それを信じ込む。そして、自分の目の前で権力の基盤が崩れていくことにも無頓着に、沈黙の飽食に明け暮れるのです。
実に馬鹿げた話ではありますが、専制君主の末路とは、存外にこんなものかもしれません。この専制君主の役どころ、ベルルスコーニ首相にぴったりだと思います。この役をオペラの舞台上で演じている彼の姿がみえるよう。ことさら演じることを意識せずとも、ほぼ、地のままで役になりきることが出来るでしょう。
それにしても、次の市民蜂起はどこで起きることになるのでしょうか。それは、ひょっとすると、日本かなとも思います。強制起訴されたあの人は、中東から地中海に広がった市民たちの正義の怒りをどうみているだろうとも思ったりします。一兵卒だから、関係ないのでしょうか。傍若無人に対しては、必ず、市民たちの逆襲が火を噴く。世界の政治家たちはそれを肝に銘じるべきでしょう。
あからさまな独裁体制をとっていなくても、それに等しい振る舞いをしていれば、いつかは人々の怒りがさく裂する。イタリア娘たちの今回の行動が、それを我々に示してくれました。手前勝手な為政者たちは、どうぞくれぐれもご用心を。明日は我が身と思うべし。