筆者には、どうもこの二つの問題に共通点があるように思えます。それは、いずれの場合にも、無理が悲劇を生んだのではないかということです。人質事件については、大切な方々をあのような形で失われた皆さんのことを思えば、あまりあれこれ話題にすることは憚られます。テーマとすることに、ためらいもあります。
そうした思いを抱きながらも、このような惨事が示唆するものから目を背けてはいけないと考えた次第です。
二つの事件の背後で、何がどのような無理をもたらしたのか。そこには、大いなる期待がもたらすプレッシャーがあったのではないかと推察します。
むろん、危険地帯での開発事業は、それなりの周到な調査と準備に基づいて進められたのだと思います。革新的技術が満載された787を就航させるに当たっては、さぞや、厳しいストレステストが繰り返されたに違いないとも考えます。そのような企業努力に、外野からあれこれケチをつけるつもりは毛頭ありません。
ただ、この二つのケースの当事者たちは、成果を出すことについて、思えば、いかほど強い重圧をかけられていたことか。社運あるいは国運という名の重荷。多くの人々の悲願と切望。そうした重荷が、彼らの肩にのしかかっていたものと思われます。
アフリカは、いわばグローバル時代の新大陸です。そして、資源の宝庫です。誰もが、何とかこの新世界における開発の利権を確保したい。日欧米の成熟資本主義諸国も、そして、次なる飛躍を目指す中国も。国々が争って、かの地における開発需要に応えようとしている真っ最中です。
アフリカにおける開発プロジェクト合戦に敗退すれば、グローバル時代を生き抜くことが出来ないかもしれない。この思いが国々を駆り立てて来ました。なかんずく、日本は開発案件に次世代型輸出立国を託そうとして来ました。プラント輸出関連業界にかかる受注プレッシャーは、いかばかりのものだったかと思われます。
他方、787は「夢の航空機」と呼ばれるようになっていました。画期的な軽量性と燃費効率が、世界の注目の的になりました。そして、新たな空の時代の到来に向けて、夢の多くの部分を託されたのが、日本の技術系諸企業だったのです。どれほど、彼らの腕が鳴り、使命感が高まったことでしょう。
いずれのケースも、奏功すれば大ロマンのテーマとなるところでした。だからこそ、どこかに無理が出た。無視してはいけない危機のシグナルが、無視されてしまった。そのようなことが無かっただろうかと思えてしまいます。
決して、当事者を責めようとしているわけではありません。ですが、プレッシャーがかかれば、人は焦り、判断も手元も狂うことになりがちです。今の日本は、閉塞感という言葉が飛び交い、どうも、新たな成功体験に飢え過ぎているようにみえます。
まだやれる。もっと出来る。そのことの証明を、必死で求める思いが募る。心理は解りますが、その帰結が悲劇であっては元も子もありません。