リッチスタンは、造語です。「リッチ」すなわち「金持ち」と、アフガニスタンとか、パキスタンなどという国名に使われる「スタン」を合体させた言葉です。アメリカのウォール・ストリート・ジャーナルの記者が発明しました。
リッチスタンは、世界の富裕層によって構成される仮想国です。グローバル化の波に乗って、急速に豊かさのレベルを高めた人々や企業たちがその住人です。
リッチスタン人となった金持ちたちは、生まれ故郷を容易に捨ててしまいます。なんのために捨てるかといえば、節税対策です。自らの努力によって築き上げた巨万の富を、なぜ、国々の政府によって召し上げられなければならないのか。そう考える彼らは、究極のタックスヘイブンを探して、地球経済上を放浪します。
リッチスタン人たちは、また時として引きこもりもします。リッチスタン人同士が集まって、籠城するのです。居住地の周りに高い壁を張り巡らせ、警備会社と高額の契約を結んで、独自の「国防」体制を取ったりするのです。
リッチスタンの存在を、グローバル時代を生きる我々はどう受け止めたらいいのでしょうか。自己防衛行動としてみれば、彼らの生き方にも、一定の合理性があるといえるでしょう。自らの能力と努力の成果を、誰にも分捕られたくはない。その気持ちも分かります。
ですが、リッチスタンが大きくなればなるほど、リッチスタンは、結局のところ、滅亡に向かうのだろうと思います。
そう考えるべき理由が二つある。第一に、多様性無きところに滅びありです。そして第二に、分かち合い無きところにも、滅びありです。
同じようにリッチで、同じように節税ばかり考えている、同じような感覚の人々の中からは、同じではない何物も生まれてはこないでしょう。状況も思いも、自分たちとは大きく異なる人々と共に生きていてこそ、人間は新鮮な感性を維持できるというものです。
また、リッチスタン人たちが富を独占してしまったら、どうなるでしょうか。彼らの中から、せっかく、世の中の役に立つ何かを生み出す人が出てきても、その成果をリッチスタン人以外の人々は、買うことができません。富は分かち合うからこそ、より大きな豊かさを生み出すのです。独り占めしていたのでは、そこからは新たな価値は生まれません。
むろん、そもそも、たとえ、そのような新たな価値の創造につながらなくても、分かち合いをケチることは間違いです。そこを見誤ってはいけません。ですが、それにしても、独り占めが、結局は自分にとっての市場や活動の場を狭めることは間違いありません。
プロ野球も、ジャイアンツが強すぎると面白くない。だから、誰も野球を見なくなる。かくして、強さの独り占めは自滅につながる。リッチスタンは、自己破壊の大国です。