IMF(国際通貨基金)の最新予測によれば、14年のグローバル経済は実質3.6%の成長となる見込みです。地球規模で経済活動が3%強も大きくなるというのです。十分に立派な数字です。この数字を、なぜさらに2%も引っ張り上げなければいけないのでしょうか。グローバル経済は巨大です。この巨大な図体を、さらに大きく膨れ上がらせる必要が、一体、どこにあるのでしょう。
成長しなければ行き詰まる。成長率低下は死に至る病だ。どうも、世の中はすっかりこのように思い込まされているようです。
育ち盛りならともかく、例えば、筆者くらいの年になれば、もう、背が伸びることはまずない。むしろ、この年で背が伸びたら気持ち悪いですよね。背が伸びないからといって、そのことが原因で死に至るようなことはありません。
すっかりいい年となった大人が、大きくなれなくなったからといって、それだけで、人生が行き詰まるなどということはありません。人間の営みである経済活動だって、同じことです。それなのに、なぜ、人類は成長にこだわるのでしょう。
ここで、ふと気が付いたことがあります。問題は、成長という言葉にあるのではないか。そう思い当たりました。経済が成長するというのは、あくまでも、単に経済規模が拡大することを意味しているのです。
ですが、我々が成長という言葉を使う時、そこには「大人になる」とか「賢くなる」とか、「成熟度が増す」というニュアンスが伴いますよね。例えば、「あいつ、結構、成長したなぁ」とか、「彼にはどうも成長が見られない。伸び悩んでいる」などという言い方をします。
この感覚があるから、人は成長が止まることを恐れるのではないでしょうか。
してみると、我々は経済を語るに当たって、成長という言葉を使うのをやめた方がいいかもしれませんね。経済成長率ではなくて、経済拡大率と言うべきなのかもしれない。成長を英語で言えば、growthです。これにも、やはり進歩とか成熟の語感が伴います。英語でも、economic growthはやめて、economic expansionへの切り替えを徹底した方が、この際、誤解の余地が無くなってよさそうに思います。
単に大きくなることは、決して、賢さが増すという意味での成長にはつながりません。そのことを、何と、かの文豪、志賀直哉が我々によく教えてくれていますよ。
彼の珠玉の短編の一つに「宿かりの死」というのがあります。大きくなりたい願望に取りつかれたヤドカリが、次々とより大きな貝殻へとお引っ越しを繰り返します。大きなお宿にふさわしく、自分の体をより大きくしようと、日々頑張るのです。おかげで、彼はどんどん巨大化します。ところが、結局のところ、この作戦には切りがありません。それを思い知らされて、彼は絶望します。
失意のうちに、彼はお宿を捨ててしまいます。ですが、ヤドカリが、生身の裸一貫で生きていけるわけがありません。柔なお尻が擦り切れて、死に至ってしまうのです。大きくなり過ぎることこそ、死に至る病なのです。