次男カルロの父親は、それでも結婚しようとは言い出さなかった。が、一方で、アパートの家賃と生活費は毎月きちんと工面してくれた。だから、フロリサさんも仕事をやめて、子育てに専念するようになる。それ以上に望むことはなかった。
ところがその状況が、徐々に変化する。
「ある時から、カルロの父親がくれる生活費が少しずつ減っていきました。私は敢えて何も言いませんでしたが、どこかおかしいと感じていました。そのうち、彼は私たちのもとへ来なくなりました」
この時、フロリサさんのお腹には、すでに次女クラリスがいた。カルロの父親との二人目の子どもだ。
「出産が迫った頃、私はカルロとクラリスの父親の仕事仲間に会いに行って、事情を話しました。その人は私たちに同情し、彼の居場所を教えてくれました。その時、知ったんです。彼は既婚者で別に家族がいるのだということを」
次男と次女の父親は、その事実を隠して、フロリサさんと付き合っていた。が、どうやら妻に知られて、関係を断たざるをえなくなったようだった。それでも最初は、出産費用を工面したり、子育てに必要なお金を手渡してくれたりしたが、次第にその頻度は減り、やがて連絡がつかなくなった。彼の住所を教えてくれた人には、訪ねていって養育費を要求するよう勧められたが、フロリサさんはそうはせずに、子どもたちと自力で生活する決意をする。
「渡してくれる生活費が少なくなってきた時点で、何かがおかしいと感じていましたから、妻子がいると知って、納得しました。連絡をくれなくなった時、これ以上頼るのはやめようと思い、別の暮らしを考えることに決めました」
そうは言っても、子ども3人を抱える妊婦にできる仕事は簡単には見つからず、やがて食費も家賃も払えない状態に陥った。母子は居場所を失い、食べていくために、「最終手段」に頼らざるを得なくなる。
「私の母も兄も姉も、すでにこの墓地に暮らしていました。だから私にとって、ここは最後の居場所でした」
この頃のことを記憶しているジュリアンは、最近になって、こんなことを話してくれた。
「ここへ来た時、私はまだ6~7歳だったので、なぜここにいるのか、よくはわかりませんでした。ただ警官だった父が死んでしまったことはわかっていたので、とにかく母のそばにいて助けになりたい、と思いました。だからこの生活も受け入れました」
たどり着いた先には、母親の家族がまさに「勢ぞろい」していた。その多くは、墓地の住民の大多数と同様、住んでいたスラムからの立ち退きを迫られ、ここへ来たのだった。
子どもに託す希望
フロリサさんの一番上の兄は、この墓地の最初の住民の一人だ。今でも墓地の一番古い墓石群、墓地とその南側のスラムを区切る高い塀一面に碁盤の目のように築かれた60~70センチ四方の墓、計100あまりの世話を任されている。一つの墓につき一カ月100ペソ(約200円)の「管理費」を持ち主から受け取っているから、月収2万円といったところだ。ここの住民のなかでは「高給取り」の一人だろう。フロリサさんの母親やほかの兄姉は、彼を頼ってここへきた。
近年のスラムの立ち退きでは、政府が一応、再定住先を用意している。だが、それは都心を遠く離れた郊外で、まさに「貧乏人の家しかない」地域であるため、スラム住民はそこへ引っ越すことを受け入れたがらない。街なかなら、ペットボトルやダンボールなどの再生ゴミを集めて売る仕事や、交差点でタバコや駄菓子を売る商売、市場での荷物担ぎや三輪自転車タクシーの運転手など、様々な仕事で日銭を稼ぐことができるが、荒野にポツンとつくられた貧者ばかりの町では、お金になる仕事がないからだ。どうにかして都心に居続けようとする者が、格好の住処として見つけたのが、「墓地」だった。
「ここでは水も電気もタダで、道端で寝起きするよりもずっと静かで安全だから、人が棲みつくのも無理のないことですよ」
墓地の管理事務所の女性職員は、棲みつくことを咎めるでもなく、そう笑う。建前上は、「ここに住む人々にはいつか立ち去ってもらう」と言っている市役所も、何十年もの間、一度も住民を追い出したことはない。そして、墓参りに来ていた墓の持ち主たちは一様に、「ほかに行く場所がない人たちのためなら、仕方がない」、「困っている人の役に立てるなら、構わない」と、一族の墓石の上に人を住まわせることを受け入れていた。そのうえ「管理費」まで払う。カトリック教徒である彼らにとっては、「貧者」に救いの手を差し伸べることが信仰の証であり、天国への近道でもあるからかも知れない。
「私たちは最初、昔からここに住む一番上の兄の家に、居候していました。それから少しずつ材料を集めて、今の小屋を建てたんです」
長兄は、墓地の塀からはみ出す形で建てた2階建ての小屋で、先妻と今の妻との間に生まれた計10人の子どもと夫婦で暮らしている。だから当然、家は満杯だ。フロリサさんと子どもたちは、いずれ自分たちの住まいを確保する必要があった。
そこで、セシルさんとその隣りに住む2番目の兄が、自分たちの近くに小屋をつくるようにと、手を貸してくれた。そうしてできあがった「家」に、ジュネルとジュリアン、カルロ、クラリス、フロリサさん、そして彼女の母親が移り住んだ。その時点で、文字通り、一族全員が「墓地に家を持つ」ことになった。
「警官だった夫と暮らした7年あまりが、一番幸せでした。彼の死後、私の人生は奈落の底へと転がり落ちていくような感じでした」
哀愁漂うフロリサさんの言葉には、墓地暮らしを始めた当時の、彼女の深い絶望感がにじみ出ていた。が、そんなことにめげている時間はなかった。子どもたちがいる。子どもたちとともに前へ進むために、一から生活を立て直そう。そう覚悟した彼女は、また仕事を探し始める。
ところがそんな矢先、心の支えだった実母が高血圧で倒れ、そのまま他界してしまう。クラリスが生まれる直前のことだ。
「私はもう死んでしまいたいとさえ、思いました……。でも、子どもたちがいるので、思いとどまりました」
子どもたち、の中には、お腹のクラリスも含まれていた。
「母が生きている時、(面倒を見てくれる父親のいない)この子は生まれたら養子に出したい、と話したら、母は、女の子だったら自分で育てなさい、と言いました」
下腹部に手をあてて話すフロリサさんの目が、運命的なものを示唆する。
「母は、この子が女の子だとわかっていたのだと思います」
クラリスは、彼女の母親の生まれ変わりなのかも知れない。
実はその後、彼女はもう一人、同じ墓地住民の男性との間に三女をもうけた。一時の恋だ。が、その少女は今、墓地内で祖母に育てられている。墓地住まいのシングルマザーが5人を食べさせるのは困難なため、親権を姑に渡したのだ。
「私のような人生を送らないよう、ジュネルとジュリアンには、真面目な警官だった父親が望んでいた通り、きちんと大学まで出て、良い仕事について欲しいんです」
フロリサさんは、自分の過ちを悔いるかのように、しみじみと語った。
私たちからすれば、貧乏で苦しい中で何人も子どもをつくること自体が信じられないのだが、先のことを考える余裕がなく、避妊の意識が薄いカトリック教徒の貧困層の間では、よくあることだった。が、フロリサさんは少なくとも、それが自分で自分の首を絞めるのと同じであると、今は考えていた。そして、愛する夫の忘れ形見であるジュリアンとジュネルには、同じ過ちを繰り返すことなく、よりよい人生をつかみ取って欲しいと、真剣に願っている。
そのためにまず、「進学する」こと。それが、長男と長女への母の期待だった。