2021年2月21日現在、新型コロナによる死者数が約18万人と世界で4番目に多いメキシコでは、全国、ほぼすべての学校で休校が続いている。世界的には、休校期間をオンライン学習でしのぐ国が多い中、メキシコでは、異なる挑戦が行われている。
大統領の決断
2020年8月3日、ロペス・オブラドール大統領は、いつものように朝7時の定例記者会見の会場に現れた。しかし、この日はいつもと周りの様子が少し違った。そこには大臣のほかに、民放4局や公共放送を統括するメキシコ放送公共機構(SPR)の代表が並んでいたのだ。それは、8月24日から始まる学校の新年度の授業をすべて、「テレビ」を通して行うという発表をするためだった。
「民放と公共放送が協力して、全国をカバーします。この方法で、新年度の授業を正式に始めるのです」
大統領は、ゆったりとした口調で、そう宣言した。
この会見に至るまでには様々な試行錯誤があったと、SPR代表のヘナロ・ビジャミルは語る。「新年度の授業については、大統領が、公教育省(SEP)の責任者と私、カナル・オンセ(SEPが持つ放送局)の局長を呼んで、何をすべきか検討するよう呼びかけました。国土の大半が、深刻な新型コロナ感染拡大に襲われている中で、子どもたちは学校へ行けなかったからです。大統領は、テレビを使って授業をすることを提案しました。テレビの方が、インターネットよりも、広範囲をカバーしているからです」
世界では、パンデミックによる休校中に、インターネットを利用した教育が主流になった。だが、これは教育格差をさらに拡げるという問題を抱えている。メキシコのように、もともと貧富の差が激しく、国民の半数が貧困層という社会では、なおさらだ。多くの子どもが、インターネットへのアクセスが困難な環境に暮らしている。そこで、ほとんどの家庭にあるテレビを利用することにしたのだ。
ただし、それには公共放送局のみでなく、民放4局の協力が不可欠だった。民放2大ネットワークであるテレビサとTVアステカは、人口の約77パーセントをカバーしており、そのほかの民放2局と全国および各州規模の公共放送局を加えれば、就学年齢の子ども約3000万人の90パーセント以上にテレビ授業を届けることができると考えられた。
「問題は、どうやって民放の協力を得て、実施にこぎつけるか。大統領のその問いに、私たちはマルチプログラミングを利用することを提案しました」(ビジャミル)
マルチプログラミングとは、一つのテレビ局が地上デジタル放送のチャンネルを複数持って放送するシステムだ。地上デジタル放送を行っているテレビ局は、このシステムを利用すれば、既存のチャンネル以外にも新たな地上波チャンネルを持つことができる。
「民放は、学校の授業を放送するために、自局の人気ドラマを中断する気はありませんからね。各局のチャンネルを増やす必要があったんです」(ビジャミル)
通常、新しいチャンネルを開設するには、連邦電気通信委員会(IFT)に申請し、長い手続きと審査をクリアしなければならない。それを簡略化し、かつ4局全体で計4億5000ペソ(約22億5000万円)の必要経費を政府が支払うことを条件に、民放の協力を取り付けた。
「学校が再開した暁には、そのチャンネルをほかのことに使えるというメリットもあるので、民放はこの提案を受け入れました。おかげで8月には、4つの新しいチャンネルが教育のために誕生したのです」(ビジャミル)
民放との交渉にあたったビジャミルは、民放にとって、実は「天敵」とも言うべき存在だった。彼は、2019年2月にロペス・オブラドール大統領によって今のポストに抜擢されるまで、社会派ジャーナリストとして活躍していた。特に、政治・経済界と深く結びついたテレビサとTVアステカによる情報操作を批判した著作で知られている。現大統領が敗北を喫した2012年の大統領選挙では、2大ネットワークによる情報操作がロペス・オブラドール大統領誕生を阻んだとも言われ、その不正のからくりを暴き、糾弾したビジャミルを、大統領は全国のテレビ・ラジオ放送局をまとめるSPRのトップに据えたのだ。そんな彼が、今回は批判の対象にしてきた2局に対して公的利益に貢献する提案を持ちかけ、協力を取り付けた。
テレビ授業プログラム「家で学ぼう」
こうして始まったテレビ授業は、2021年2月現在も全国で続いている。この授業プログラムは、「家で学ぼう」と名付けられ、その制作を担当するのは、公教育省=SEPだ。