大学の学費に関する一つの発言が今、大きな議論を引き起こしています。問題の発言があったのは、2024年3月27日の中央教育審議会(文部科学省の諮問機関)「高等教育の在り方に関する特別部会」の中で、委員をつとめる慶應義塾長の伊藤公平氏が「国公立大の学費を年150万円に上げるべきだ」と提言したのです。
これは国立大学の学費を現在の標準額である年間53万5800円から、約3倍程度値上げすることを意味します。伊藤氏は「国公私立大の設置形態にかかわらず、教育の質を上げていくためには公平な競争環境を整えることが必要」との理由で、国公立大学の学費値上げを主張したとのことです(東京新聞「『国立大の授業料を年間150万円に』慶応トップの提案に反発も…『公平な競争』に必要なことって?」2024年4月24日)。
この提言通りのことが実現したらどうなるでしょうか? 文部科学省の「私立大学等の令和5年度入学者に係る学生納付金等調査結果について」によれば、23年度の私立大学の授業料平均額は95万9205円です。国公立大学の学費が年150万円になれば、私立大学の授業料を大幅に上回ることになります。
昨今の受験生が国公立大学を志望する理由の一つは、「学費が私立大学よりも安い」ことです。そうした有力な志望動機の一つが奪われることになります。また、国公立大学の学費が大幅に値上げされれば、貸与型奨学金利用者の割合は急激に上昇するでしょう。その結果、卒業してから奨学金返済に苦しむ若者が、今以上に増加することが予想されます。
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他にも大きな問題があります。私立大学より多額の税金が国公立大学に投入されているのは、経済力の有無に関係なく進学を可能にする「教育の機会均等」を実現するという目的があるからです。1970年代以降の国立大学の授業料値上げによって、やや曖昧となっている面はありますが、依然として国公立大学の重要な目的の一つであることには変わりありません。国公立大学の授業料値上げは、そうした「教育の機会均等」を破壊します。
また、国立大学には地域間の不平等を是正することで、「教育の機会均等」を実現するという役割もあります。そのため第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が出した「一府県一大学」の方針に沿って、全都道府県に国立大学が設置されました。
地域による大学の偏在は激しく、2022年度において東京都には4年制大学が160校(国立大学14、公立大学2、私立大学144)あるのに対し、たとえば鳥取県には4年制大学は3校(国立大学1、公立大学1、私立大学1)しかありません。特に私立大学の数は地域によるばらつきが大きく、国公立大学の授業料値上げは地方に一層大きな打撃を与え、地域間の教育機会の格差を拡大することになります。
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さらに伊藤氏の提言は、経済状況の悪化にともなって「学費の引き下げ」を求める人々が、近年、急速に増加している動きとも逆行しています。1990年代初頭のバブル経済の崩壊と経済のグローバル化に伴い、90年代後半以降は日本型雇用が再編されて非正規雇用労働者が急増し、正規雇用労働者の賃金削減も進みました。厚生労働省の「国民生活基礎調査」によれば、世帯所得の中央値は95年の550万円から、2021年には423万円まで減少しています。
所得の減少は学費の支払いを困難にします。大学の高い学費はそもそも「子どもが大学生になる頃には親の賃金が上がっている」という、年功序列型賃金を前提にして成立しています。そのため国立大学の授業料は、1970年代から90年代にかけて急激に上昇し、75年の年3万6000円から2005年には53万5800円まで値上がりしました。
しかし、年功序列型賃金が崩れたことで親は学費支払いが苦しくなり、以降は国立大学の授業料(標準額)も24年現在まで19年間据え置かれています。代わりに大学生の奨学金利用率は、1996年の21.2%から2022年には55.0%へと上昇しました。授業料の据え置きがこれだけ長く続いているのは、「高い学費に苦しむ」学生や親の状況を受けて「国立大学の授業料をこれ以上値上げすることはさすがにできない」という社会的合意が形成されてきたからでしょう。
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また近年は公立大学の数が急速に増えています。1950~90年にかけて公立大学はさほど新設されませんでしたが、90年の39校から2000年には72校に、06年には国立大学数を上回り、22年には101校となっています。授業料も53万6363円(21年度)で国立大学とほぼ変わらず、私立大学よりかなり安くなっています。
文部科学省の調査によれば、公立大学全体の平均受験倍率は5.9倍(21年)と高く、国立大学全体の3.8倍(同)を上回っており、受験生の人気を集めていることが分かります。この人気の理由の一つに「学費の安さ」があることは間違いないでしょう。公立大学の急増には、「学費の安い大学」を求める人々が増加している、という事情を読み取る必要があると思います。
そして奨学金利用者の急増は、大学卒業後の奨学金返済苦という社会問題を生み出しました。13年3月の「奨学金問題対策全国会議」(代表・大内裕和/伊東達也)の発足以降、奨学金制度の改善が進み、17年には給付型奨学金の導入、20年には給付型奨学金の拡充と学費減免をセットで実施する「大学等における修学の支援に関する法律(大学等修学支援法)」がスタートしました。まだまだ十分ではありませんが、奨学金制度の改善と学費減免への動きが進んだことは事実です。その背景には「学費負担の引き下げ」を求める学生や親の急増と、彼らを支援する運動の活発化があったことは明らかです。
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それではなぜ、伊藤慶應義塾長から学費値上げの提言が出たのか? そこにはまず、日本における高等教育の大衆化の特徴と、高等教育システムのピラミッド構造が関係しています。終戦直後に国立大学を全都道府県に設置して以降、日本政府は国立大学の拡充に極めて抑制的な政策をとりました。その結果、高等教育の大衆化は私立大学の増加によって担われ、現在では日本の大学生の約74%が私立大学に通っています(文部科学省「令和4年度学校基本調査」)。
このことは国公立大学が多数を占めるヨーロッパ諸国の多くや、ハーバード、イェール、プリンストンなど有名私立大学はあるものの学生(2年制を含む)の7割以上が州立大学に通うアメリカとは、とても異なった状況です(文部科学省「諸外国の教育統計」平成31年版)。ヨーロッパやアメリカは税金で支える国公立大学が優勢を占めているのに対し、日本は主として学生・親の学費負担に頼る私立大学が優勢を占めているのです。