奉天の街のショーウィンドーに飾られていたという、当時珍しかった全自動でレコードを入れ替えるアメリカ製のレコードプレーヤーや、自宅の応接間に置かれていたというボヘミア製のカットグラスの灰皿、学校で使われていたというドイツ製「ババリア」の鉛筆や「ペリカン」の絵の具など、文章を読んでいると当時の満州における暮らしぶりが目の前に浮かび上がってくるようで、興奮しながら手紙を読んだことを覚えています。
先川 僕も北海道新聞の特派員としてカイロやワシントン、北京に駐在したけれど、親父は記憶力がとびきり良くて、細かな数字や出会った人たちを正確に覚えていました。親父が書き残した文章は、子どもの目から見た描写だけれど、ほとんど脚色されていません。子どもの視線でよくここまで冷静に世の中を見ていたものだと驚きました。おそらく、彼自身が早熟だったということ以上に、日本が戦争に直面していたこともあり、時代的に若者が今よりもっと国家や社会といったものに真剣に向き合っていた。その影響もあったと思います。
満州国という舞台も、親父の人生を唯一無二にしています。満州は「日本にとっての生命線」と言われ、軍事力と政治的策略による傀儡国家でした。陸軍の戦略家・石原莞爾の「世界最終戦論」という独自の戦略思想に基づく実験国家的な要素も強く、南満州鉄道を中心に上下水道などのインフラはもちろん、建国大学の創設に象徴される「五族協和」を掲げた壮大な理想郷を本気でつくろうとしていた。その中で青春期を送ったことは、激動する時代を肌で感じてすべてが刺激的だったはずです。
一方で、親父にとって戦争の現実や満州国の統治形態は、きれいごとではなかったと思います。満州国の総務庁で欧州やアジア各国からの情報を収集・分析する過程において、日本の侵略戦争に勝ち目がないことはわかっていたはずです。親父の話から思うのは、死ぬのは前線に送り込まれた若者ばかりで、戦争遂行を決めた年寄りどもは安全圏にいて戦争を終わらせることができないということ。親父の兵隊時代の写真の裏には「民主主義、全体主義を通じ、最も嫌悪せる時代」と鉛筆で走り書きがしてあった。晩年も「戦争は人間を狂気にする」と嘆いていました。死ぬことが日常になっていたひどい時代だったが、親父にとって唯一の救いは、満州建国大学の仲間との民族や国家を超えた友情だったと思います。いや、友情というより、もっと深い部分でつながっていたのではないでしょうか。
厳しかった父の素顔
三浦 ご長男として見た、ご尊父の祐次さんはどのような人物でしたか?
先川 とにかく厳しい人でした。僕が小学校2年のころ、家の中でおもちゃの銃で遊んでいると、帰宅した親父が「これは戦争に使うものだ!」と激怒し、銃を取り上げゴミ箱に投げ捨てたことがあります。戦時中の話はめったにしなかったし、戦争を忌み嫌っていたと思います。
また、親父は自分の父親、つまり僕の爺さんを反面教師にしていました。爺さんは旧制中学を2回飛び級するほどの秀才だったが、酒を飲んでは荒れたらしい。だから、僕は親父から「絶対酒を飲んで乱れるな」と口を酸っぱくして言われました。さらに「転職はするな」とも。爺さんが朝鮮銀行の支店長から満州フォードに転職し、その後も仕事を転々と変えたものの、暮らしぶりが上向かなかったことを見ていたからでしょう。
親父は西日本新聞に勤務していた頃は日付をまたがずに帰ってくることなんてまずなかったし、家庭を顧みない仕事人間でした。しばらく家にいないなあと思っていたら、アフリカに半年以上取材に行っていたこともあります。でも、僕のおふくろは満州育ちの大らかな人で、戦後は福岡市内で保育園を経営しながらずっと家計を支えていました。おふくろは中国語の「没法子」(メイファーズ=仕方がないね)が口ぐせで、何があっても明るく笑い飛ばしているような人でした。
三浦 そうだったんですね(笑)。でも、ご尊父の祐次さんは私のインタビューには、同じ国際記者という仕事を選ばれた信一郎さんのことをいろいろと気遣っておられましたよ。
先川 本当かなあ(笑)。僕にはそんな素振りは見せず、むしろライバル視していたようなところがありましたよ。お互い、フルブライト留学生としてアメリカの大学で勉強しているし、中東・アフリカにも特派員として勤務している。でも、僕がヒマラヤ遠征や南極、イラク戦争の取材に行ったことを羨ましく思っていたり、グーグル検索で自分の名前よりも僕の名前が多く出てくることを意外に気にしていたり(笑)。
一方で、「これはかなわないなあ」と思ったのは、僕が北京支局長のときに親父が遊びに来て一緒にタクシーに乗ったときのこと。親父の流暢な中国語を聞いたタクシーの運転手さんが「絶対に日本人じゃない」と言うんですよね。「どこか(中国)東北部の出身ですか?」と。そういう、満州で生まれ育ったことによる、僕らじゃ追いつけない世界の広さというか、国際感覚というのを自然と身につけていたと思います。なんというかな、それこそ、今の日本に一番足りない「世界を見る力」といったようなものを。
そんな性格だから、ワシントン特派員時代、僕やおふくろなんかも一緒にワシントンに帯同したのだけれど、親父はどんどんホワイトハウスや国務省の高官と仲良くなって自宅に招かれたり、一緒にゴルフを楽しんだりして、米政府の中枢にぐいぐい食い込んでいくわけです。ゴルフ場って、実は外交の舞台なんですよね。ロッカールームで政策が決まることもある。親父はほかの日本の特派員とはまるで違う動きをしていて敏腕の外交官みたいでした。記憶力は図抜けているし、独自の情報源を持っている。なにより英語、ドイツ語、中国語に堪能で、相手を笑わせるユーモアがあった。今から考えれば、これこそ満州国の総務庁勤務時代に鍛えた諜報のテクニックだったのかもしれません。