大学卒業後、毎日新聞に入社して広島に赴任し、3年目に「黒い雨訴訟」を担当しました。「黒い雨」というのは、原爆投下後に広範囲に降った雨のことです。1976年以降、終戦直後の調査で「大雨雨域」とされた地域(長径約19キロ、短径約11キロ)だけが、不十分ながらも一定程度の援護を認められていました。
ところが、認定された大雨雨域の外側にいた「小雨雨域」の人たちはずっと被爆者認定制度の対象外とされてきたんです。原告は「黒い雨」が広い範囲に降ったことを認めてほしいと訴え続けていて、2015年に最後の手段として提起されたのが「黒い雨訴訟」でした。6年間の審理を経て、2021年に広島高等裁判所で勝訴し、「黒い雨」がより広範に降ったということも含めて、被害が認められました。
三浦 小山さんの著書『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を読むと、新しくわかってきたことがこんなにあるのかと驚きました。
小山 私は、80年前といまの世代を結びつける架け橋になりたいという思いがずっとあるんです。「黒い雨」は、過去の問題ではなく、現在も続く問題であると捉えてもらうためには、どうしたらよいか。柳田邦男さんは『空白の天気図』の「あとがき」で、「ジャーナリストが一度そこ(広島)に足を踏み入れると、その街のために何かを書かなければならないという責任感の虜になる」と書いていますが、私の場合は、「広島のため」というよりは、視野を広げて世界や自分の問題として捉えられるようなものを書きたいと思っています。
世界に「ヒロシマ」が果たすべき役割
三浦 私は北東北の盛岡を拠点にしていて、そこから世界や日本を見るときに、「中央」とは少し違った視点で、物事が見えてくると感じています。小山さんも広島を拠点にされていますが、広島からはどのように世界が見えていますか?
小山 広島では、何か深刻なことが起きた際には、すぐに声を上げなければいけないという意識がしっかりと根づいています。たとえば今年(2025年)、インド・パキスタンでの軍事衝突や、アメリカによるイランの核施設攻撃などが起きた際には、すぐに原爆ドームの前に人々が集まりました。平和運動において広島だけが特別だというわけではありませんが、やはり世界からの目線も含めて、果たすべき役割がある土地だと思います。昨年訪れたカザフスタンのセミパラチンスク核実験場では、私が広島から来たというと、現地の人たちが心を寄せてくれました。そういう意味で「ヒロシマ」というワードが、ある意味、人々の心を結びつける「接点」になれるのではないかと思います。また、そうした対外的な期待があるからこそ、いまの広島がその期待にどのように応えられるのか――ジャーナリストとしてずっと自問自答しています。
三浦 私は以前、福島を拠点にして原発の取材をしていたのですが、そのときに地方同士が連携する必要性を強く感じていました。とくに、福島や広島・長崎、沖縄など、政府が犯した国策のミスによって大きな被害を受けた地域が、本来はもっと密接に連携をして政府の政策に対して声を上げたり、監視の目を向けたりしないと、同じことが再び繰り返されてしまいかねない。広島は、その連結点になることができるのではないかと思います。福島とは放射能被害のつながりも強いし、沖縄とは戦争の被害という部分でもつながることができるから。
小山 そうですね。いま広島と長崎と高知と福島で活動しているジャーナリストで集って、被ばくジャーナリストネットワークのようなものをつくろうとしていて、今年10月に共著で『被ばく「封じ込め」の正体』(岩波ブックレット)という本を出すことになりました。それぞれの地域でばらばらになるのではなく、これからは共通点を探して、つながっていかないといけないと思っています。
世代交代のなかでいかに語り継ぐか
三浦 私は『1945』の「あとがき」で、この国の世代を、自らが戦争を体験した《第一世代》、周囲に戦争体験者がいて彼らから直接話を聞くことができた《第二世代》、戦争体験者が姿を消し、その経験談を直接聞くことのできない《第三世代》の三つに分けて論じました。私はかろうじて、真珠湾攻撃に参加した生き残りのパイロットや、満州国の官僚だった人に直接話を聞いたりすることができた、第二世代の最後です。今年の戦後80年は、戦後70年と比べると新聞報道もテレビ番組も発掘された新しい事実が驚くほど少なく、第二世代から第三世代へ、世代交代が加速度的に進んでいるのを肌で感じています。