韓国の憲法77条で規定された「戒厳」の一種のこと。「戒厳」とは、一般的には戦時やそれに準じる非常事態に際し、国の統治権の一部あるいはすべてを軍に委ね、市民の権利を保障する法律の一部を無効とすることを指す。また、それを宣告する命令を「戒厳令」と呼ぶ。
韓国では、大韓民国憲法77条で以下のように規定されている。(1)大統領は、戦時・事変又はこれに準ずる国家非常事態において兵力によって軍事上の必要に応じたり、公共の安寧秩序を維持する必要があるときには、法律が定めるところにより戒厳を宣布することができる。(2)戒厳は非常戒厳と警備戒厳とする。(3)非常戒厳が宣布されたときには、法律が定めるところにより令状制度、言論・出版・集会・結社の自由、政府や裁判所の権限に関して特別な措置を行うことができる。(4)戒厳を宣布したときには、大統領は遅滞なく国会に通告しなければならない。(5)国会が在籍議員過半数の賛成で戒厳の解除を要求したときには、大統領はこれを解除しなければならない(韓国法制処「国家法令情報センター」サイト)。
2024年12月3日22時30分頃、尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領がテレビを通じて緊急談話を発表。国会で多数を占める野党が政府高官の弾劾訴追案提出を繰り返すなどしていることを「国家機関を攪乱させるもので、内乱を企てる明白な反国家行為」であると非難し、「国会は犯罪者集団の巣窟」「北朝鮮に従う反国家勢力を一挙に撲滅する」などとして、憲法77条2項に基づく「非常戒厳」を宣言した。「非常戒厳」は、敵と交戦状態にあるか、社会秩序の極度の混乱によって行政・司法が機能を果たすのが著しく困難なときに宣布されるもので、「警備戒厳」より統制がより広範囲に及ぶ。
23時には、設置された戒厳司令部が「国会と地方議会、政党の活動と政治的結社、集会、デモなど一切の政治活動の禁止」「すべてのメディアと出版の統制」「令状なしの逮捕・拘禁・強制捜索」などを内容とする「戒厳司令部布告令(第1号)」を発表。その後、戒厳司令部の指示を受けた特殊部隊が国会に侵入した(大統領談話と戒厳司令部布告令については、「コリア・フォーカス」徐台教〈ソ・テギョ〉編集長の翻訳による)。
しかし4日未明には、国会の禹元植(ウ・ウォンシク)議長が本会議を招集。駆けつけた与党を含む190人の議員全員の賛成で、憲法77条5項に基づく戒厳解除要求の決議案が可決され、尹大統領は同日4時半に戒厳解除を表明した。
その後、野党が、戒厳宣布を重大な憲法違反として、尹大統領の弾劾訴追案を提出。弾劾成立には全議席(300人)の3分の2の賛成が必要で、1回目の7日は与党議員のほとんどが参加しなかったことで廃案となったが、2回目の14日には与党議員の一部も賛成し、204人の賛成で訴追案は可決された。訴追案の内容は、今回の非常戒厳宣布が法的な要件(必要性)を満たしていないこと、軍を国会に侵入させて戒厳解除に向けた議員の活動を妨害したこと、一切の政治活動を禁じるとした布告を発表して表現の自由を侵害したことなどを違憲とし、尹大統領を「内乱を首謀した捜査対象者」とするものである。弾劾成立により、尹大統領の職務は停止され、憲法裁判所が180日以内に罷免の是非を判断することになる。
1948年に大韓民国が成立して以降、1979年までに16回の戒厳が宣布された(このうち非常戒厳は12回)。1979年の戒厳は朴正煕(パク・チョンヒ)大統領暗殺後に宣布されたもので、翌年の5月には全国に拡大。軍が光州市の市民を弾圧し、殺傷した「光州事件」につながった。今回の戒厳宣布はそのとき以来、45年ぶりで、1987年の民主化以降、初めてとなる。
日本では、1882年の太政官布告と大日本帝国憲法14条に戒厳が定められ、日比谷焼打事件(1905年)、関東大震災(1923年)、二・二六事件(1936年)に際して宣布された。戦後の日本国憲法には戒厳の規定は存在しない。