原子力災害を美化しない
三浦 三原さんは、大学に進学する18歳まで浪江町で育ち、震災のときは東京にいて、いまは、東京で出版社を経営しながら、浪江町を見ている。第一歌集『ふるさとは赤』を読むと、浪江と東京という二つの異なる視点から、原子力災害を見ていることがはっきりと感じとれます。加えてEメールやSNSなど、物理的な距離が存在しない電子空間の中でのやり取りを通して、原発事故を描いていることも印象的です。たとえば〈「元気だよ、被曝してるけどね」って笑顔の絵文字の返信メール〉という作品がありますが、表現も生々しく、辛辣ですよね。
三原 私が短歌を作るときに意識しているのは、美化をしないということなんです。できるだけありのままに表現しようと心がけています。いま浪江に住むためには、どこか美化をしたり、何かそれなりの理由をつけたりしないと住めないと思うんですね。そもそも、国が避難指示を解除する際に、残存放射線量の基準値を事故前の年間1ミリシーベルトから20ミリシーベルトへと大幅に上げていなければ、浪江町は帰ることもできない場所だったわけですから。それなのに、いまは「福島は元気です」という一方的なアピールがとても多く聞かれるようになった。一方で、戻った人の中にも複雑な心境でありながら、生活を続けている人がいる。私はそうした作られた空気によって現実が美化されて、事実をねじ曲げられてしまうのが嫌なんです。私は、いまあるそうした空気を打ち破りたいのです。
そういう面で言えば、震災から9年の2020年3月、安倍元首相が浪江町に来て記者会見をしたときに、三浦さんも周りの空気を打ち破って無通告質問をしましたよね。私は三浦さんのそうした姿勢にとても共感し、勇気づけられた一人なんです。
三浦 当時、安倍さんが福島に訪れた目的の一つは、自分が被災地にも興味を持っているよ、とメディアを通じて全国の人に見せることでした。それから、当時はちょうど新型コロナウイルスが流行り始めたときでしたので、国の政策に対する批判をかわそうという狙いがあった。でも、実際に記者会見の場所に行くと、そこは浪江町なのに福島の記者は入れず、東京の記者しかいない。つまり、安倍さんの発言は福島に向けてではなく、最初から東京に向けて発信されるものだったわけです。私は会見の場にもぐりこんで「福島はいまでもアンダーコントロールだと思っていますか?」という質問を安倍さんにぶつけました。福島で暮らしている人で、原発がアンダーコントロールだと思っている人は誰もいませんから……。
帰るか、帰らないかという選択
三浦 三原さんの第一歌集『ふるさとは赤』を読んでいると、どれもいいのですが、個人的には〈ふるさとを/失いつつあるわれが今/歌わなければ/誰が歌うのか〉という歌が好きです。福島にいても、東京にいても、「原発被災地はまだまだひどい状況だよ」という指摘でさえ、言いにくい状況になっていますよね。どうして原発事故は、こんなにも語りづらいテーマになってしまったのだと思いますか?
三原 やはり「帰った人」「帰る人」「帰らない人」「帰れない人」と、住民が分断されてしまったことが大きいと思います。全員一緒に避難していたときには、みんなで批判ができたわけです。ところがいまは浪江に帰っている人がいるので、批判をしてはいけないという空気があります。私も「浪江に住んでいないのに批判をするな」と言われたりすることがあります。いまの浪江を批判すると、浪江に帰った人を批判していると見なされて、「風評加害」とか言われてしまう。でも、実際に放射能汚染は「風評」ではなく、明らかな「実害」です。「帰る」「帰らない」の選択は自由ですが、その事実から目を逸らしてはいけないと思います。
三浦 みんな迷っているんですよね。帰った人も、すごく迷いながら帰っている。帰っていない人は、帰るべきなんじゃないかって、いまも迷っている。でも、本来、そういう人たちの多くは、原発事故がなかったらずっと住み続けることができた人たちなんです。帰るか帰らないかという選択を迫ること自体、不幸であり、間違っていることなんですよね。
三原 そうなんです。帰るか帰らないかと迷うことによって、どんどんお互いが疑心暗鬼になっていってしまう。避難で集落がみんなばらばらになってしまって、顔を合わせることがないために、「あいつは戻って来ないからダメだ」とか「本当に戻って平気なのか」とか、妄想で相手を判断してしまうところが、私を含めてあります。でも、浪江の昔の思い出を大事にしたいという気持ちは、みんなに通底しているはずなんですよね。だから、私は最近、浪江町で、帰った人も帰っていない人もお互いに顔を合わせて、「浪江を語ろう」という会を開いたりしています。