妊娠した女性が自分で「産む/産まない」を決められない日本の現状とその背景を伝えた前編に続き、後編では女性の人権に基づくリプロダクティブ・ヘルス&ライツ(Reproductive Health and Rights: RHR)について、海外での動きや日本が今後取り組むべき課題を、中絶問題研究家の塚原久美さんにうかがった。
女性の人権が前提にあるRHR
――RHRという言葉は、日本ではそれほど一般的になっていないのではないかと思います。改めて、RHRとは何か、説明していただけますか。
昨今ではセクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス&ライツ(Sexual and Reproductive Health and Rights: SRHR)とも言われますが、従来、国連が定義していたのはRHRだけでした。それに対し、日本の女性たちが早くからSexual(性の)の意味合いも読み込んで「性と生殖の健康と権利」と訳してきたのは秀逸だったと思います。ただ私は「妊娠、中絶、出産」の問題に特に注目しているため、あえてSexualは落としてRHRという言葉を使っています。
日本政府はRHRを「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」と表記していますが、「/(スラッシュ)」は「or(または)」をも意味する記号なので、これでは「生殖の健康」と「生殖の権利」のどちらか一方で足りることにもなってしまいます。そうではなく、この2つの概念は相補的で両方を満たす必要があり、記号を使うなら「&」にすべきです。リプロダクティブ・ヘルスとリプロダクティブ・ライツを記号で結ぶのであれば、「&」であるべきと考え、私は政府訳と対比させる意図もあって「リプロダクティブ・ヘルス&ライツ(RHR)」という表記を使っています。
このRHRが定着する前、女性運動の中では「リプロダクティブ・フリーダム」(婚姻の自由、配偶者選択の自由、子供を産む/産まないを女性が決める自由など)という言葉がしばらく使われていました。1984年に開かれた第4回「女と健康会議」で、女性としての共通課題として生殖に関する国の介入を拒み、女性の人権に基づいた「リプロダクティブ・ライツ」という概念を提唱することが確認され、その後の国連での議論にも大きな影響を与えていきます。
国連で「リプロダクティブ・ライツ」が初めて定義されたのは、1994年の国連「人口と開発に関する国際会議(カイロ会議)」でした。
「リプロダクティブ・ライツは、自由にかつ責任をもって自らの子どもの数と間隔とタイミングを決めることと、それができるための情報と手段を有すること、ならびに最高水準のセクシュアル&リプロダクティブ・ヘルスに到達するためのすべてのカップルおよび個人がもつ基本的な権利を認めることにかかっている。」(塚原久美『日本の中絶』、ちくま新書、2022年)
そして、具体的に示されたのは以下の3つの権利で、これは翌1995年に北京で開かれた第4回世界女性会議でも再確認されています。
「1 子どもを産むか、産まないか、産むとしたらいつ、どのような間隔で産むかを決定する権利。
2 1の決定を実行するための情報と手段を得る権利。
3 性や生殖に関する健康を最大限享受する権利。」(同上)
1は「自由権」、つまり国家権力の干渉を受けない個人の権利の保障であり、2は「国家が個人に保障すべき権利」で「社会権」に該当します。1と2を整えることで、3の「健康への権利(健康権)」を享受できるようになるわけです。ここで言う「健康」とは、単なる身体的な健康(病気などではない状態)を超えて、心の健康(心穏やかにいられること)、社会的な健康(社会の中で安心して満足しながら暮らしていけること)も含めた「ウェルビーイング」(自分として満足のいく最良の状態)を意味します。生殖においてライツとヘルスはどちらが欠けても成り立たない、車の両輪のようなものなのです。
――なぜ、1990年代になってRHRが提唱されるようになったのでしょうか。
カイロ会議で画期的だったのは、人口政策をそれまでの国家管理によるものではなく、個々人の人権の文脈に置き換えて「RHRを明文化」した点です。戦前から戦後にかけての日本の状況がそうであったように、人口政策では、人口が足りないときは国が出産を奨励し、過剰なときは抑制するというやり方が行われてきました。しかし、戦後になり、かつてのナチス・ドイツに代表される優生政策への反省や、1960年代から1970年代にかけて高まったウーマン・リブ(女性解放運動)の世界的なムーブメントの中で、個人の権利を度外視して国が生殖に介入するのは人権の観点から問題だとする議論が起こるようになりました。