ケア労働の性別偏りは、「女性ならケアできてあたりまえ」というジェンダー規範に基づくものです。有償ケア職は、その仕事量や責任の重さに比べて低賃金だということも知られていますが、それは「ケア」が「女性なら誰でもできる」とみなされてきたことも影響しているでしょう。とりわけ日本は強固な男性稼ぎ手モデルの社会で、ケアは家庭内の女性の役割であることを前提に福祉制度が組み立てられてきました。介護については家族だけで担うのは限界があると認識されて介護保険制度が導入されましたが、近年、利用料負担の増大などで経済力がない層はサービスが利用しにくくなり、再び家族ケアの負担が増える方向に向かっています。
また、育児は未だに親、特に母親の責任とみなされる傾向が続いています。保育園やベビーシッターなどの利用が一般的になっても、「こんなに小さいうちから預けるなんて」「長時間保育はよくない」等、母親に罪悪感を抱かせる言説は一向になくなりません。2010年代以降、「キャリアと育児を両立させて活躍する女性」の理想が広がったこともあり、限られた時間のなかで「きちんとケアすべき」という母親へのプレッシャーはますます強まっています。
――「女性は気遣いができる=だからケアに向いている」「男性は気が利かない=だからケアができない」といったイメージも根強いです。
「女性ならではの気配り」などと言われ、丁寧なコミュニケーションが必要な業務やトラブル対応に女性が当てられることも多いですよね。でも、気遣いが苦手な女性もいれば、気が利いてコミュニケーションが上手な男性もいるはずです。それなのに、女性は「自然と」気遣いや思いやりができる存在だとみなされ、「女性なら上手にケアできるはずだ」と捉えられてきました。このような性別規範は、女性のケア負担を増やす一方、男性のケア責任を免除することにもつながっています。
「子どもを夫に預けて出かけたら、『自分には無理、やっぱりママじゃないと』と夫に言われた」という妻の愚痴を見聞きすることがあります。これは夫が男性だからケアに向かないのではなく、子どもをケアする責任を感じていないから「無理」と思考停止できるわけです。実際のところ、妻だって「無理!」と思うことはあるでしょう。それでも、「自分がやらなければ、目の前の子どもが大変なことになる」という切迫感があるから、何とかやらざるを得ないのです。なぜ妻だけが「自分がやらなければ」と思ってしまうのか、それは単に子どもの世話をする時間が長いからというだけではなく、妻だけにそう思わせる社会の構造があるということです。
一つ付け加えると、そもそも何が「良いケア」かは一概には言えず、ケアをする側が「良い」と思っても、相手にとってそれが本当に良いことかどうかは別問題です。その不確実性を考えていくことが大切なのですが、これを言うと、男性から「ケアのハードルを上げている」「そんな難しいことが、普段ケアをしていない自分にできるわけがない」という反応がよく返ってきます。でも、女性なら「そんな難しくてめんどうなこと」ができるはず、というのは単なる思い込みです。「正解」が見えないケアの難しさに直面しつつ、女性たちは迷い、悩みながら負担や責任を引き受けています。
「ケアは難しいからできない」と言えない側に誰が立たされているのか。これは家庭内の無償ケアはもちろん、有償のケア労働でも同じことが言えます。「このまま放っておけないから、自分がやるしかない」と、労働時間の枠を超えてケアをしている職員の無償の頑張りに、保育や介護の現場は支えられていますが、それに甘え、頑張りを搾取している誰かがいないと言えるでしょうか。

「ケアの倫理」と「ケア格差社会」
――「自分に責任はない」と思っている男性にケアを分担させるのは大変です。その労力を考えると、「黙ってやった方が楽だし早い」と諦めてしまう女性も多いかもしれません。
冒頭で述べたように、ケア労働は私たちが生きる社会を支えるもので、誰かが担わなければなりません。ただ、その誰かは常に社会のなかで弱い立場にある人であり、誰がどのケアに責任を感じるかは社会的なものです。男性もケアの負担を引き受けることは大事ですが、ケアの負担が「誰かひとり」に偏り、フリーライド(ただ乗り)を許す「ケア格差社会」の仕組みを変えていかなければ、ケア負担の不平等を根本的に解決することはできません。
近年、「正義・公正」や「自立・自律」を重んじる近代西洋思想のオルタナティブとして「ケアの倫理」が注目されています。1982年に「ケアの倫理」を最初に提唱したアメリカの心理学者キャロル・ギリガンの『もうひとつの声』(*)以降、脆弱な他者をケアすることの価値に光が当たるようになりました。そのことの意義は認めつつ、ケアを個人の道徳的能力とする、ケアの倫理の議論の枠組みについては注意が必要だと考えています。
もちろん、これまでケアしてこなかった人がケアすることに目覚めることは大切だと思います。しかし、ケアを倫理の問題として捉えるだけでは「ケア格差社会」は解消されません。まず必要なのは、ケアの負担を負わされている人の「ケア労働はしんどい」もしくは「ケア労働をしたくない」という異議申し立てのための「言葉」です。以前、日々多くのケアに追われている人から「ケアの倫理の話は聞きたくない」と言われたことがあります。確かに、しんどさを抱えながらやっているケアを「あなたは素晴らしいことをやっていますよ」と称賛されたとしたら、「ケアがつらい」とは口にしにくくなるでしょう。
――「ケア格差社会」を変えるのは、家庭でケアの責任や負担を分け合うこと以上に難しそうです。ひとりひとりにできることはあるのでしょうか。
まず、ケアする人が語ることができる言葉がもっと必要だと思います。「女性ならうまくケアできる」という規範は、ケアの負担を軽く見積もり、「何とかしてほしい」と訴える女性たちの声を封殺してきました。これは私が訪問介護を担うホームヘルパーの運動にかかわるなかで強く感じてきたことです。「利用者のため、自分がやらなきゃ」という道徳的責任を背負うなかで、労働条件については声を上げられずにいる人は本当に多いです。「ケアをしている人の声を聞くことが大事だ」と言われるようにはなってきていますが、その声は十分に発せられているかどうか、考えるべきでしょう。
求められているのは、ケア労働をする人の「怒りの言葉」です。家庭のなかでも労働市場でも「負担を減らしてほしい」「もっと給与をあげてほしい」と言い続けているのに見向きもされない、ということが続けば、無力感に囚われるのはわかります。しかし、ケアのしんどさは「自分はただ乗りされている」ということにも根差しているのですから、諦めたり我慢したりしないで、もっと怒っていいのです。
(*)
邦訳は1986年刊行『もうひとつの声 男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』(岩男寿美子監訳、生田久美子・並木美智子訳、風行社)、および2022年刊行『もうひとつの声で 心理学の理論とケアの倫理』(川本隆史・山辺恵理子・米典子訳、川島書店)がある。