公共放送とは何だろうか。日本の公共放送であるNHKホームページは、「営利を目的とせず、国家の統制からも自立して、公共の福祉のために行う放送」だと説明している。政府が運営し、政府の宣伝を行なう国営放送とは全く異なるということだ。
ところが、その公共放送の報道の自由が危うくなる事態が、韓国で起きていた。2008年2月に保守派の李明博(イ・ミョンバク)政権が成立して以降のことだ。異常事態は昨年まで続いた。
「政府が放送を支配するような時代はもう完全に終わったと思っていました。とんでもない間違いでしたね」
崔承浩(チェ・スンホ)さんは李政権発足時をそう振り返る。チェさんは当時、韓国MBC(韓国文化放送)テレビのプロデューサーだった。
たたずまいは静かだが、眼差しは強い。記者やキャスター、プロデューサーなど、メディアの仕事に携わる人のことを韓国では「言論人」と呼ぶが、彼は報道一筋で歩んできた、まさに筋金入りの言論人だ。権力とメディアの共犯関係を鋭く批判したドキュメンタリー映画『共犯者たち』(2017年)を監督したチェさんに、話をうかがった。
まさかと思っていた
チェ・スンホさんは1961年に生まれ、大学卒業後の86年にMBCテレビに入った。学生時代は演劇に熱中していたチェさんはドラマ部門に行くことを希望していたが、配置されたのは時事教養部門だった。その後、報道の道を歩み、時事番組『PD手帳』のプロデューサーとなった。PDとは、プロデューサーを指す言葉だ。
『PD手帳』は、日本で言えば『NHKスペシャル』やTBSの『報道特集』のような調査報道番組だ。90年に放映が始まり、今も続く人気番組である。社会問題や政府の政策チェック、企業や団体の不正告発から埋もれた歴史的事実の発掘まで、幅広いテーマで世の中に問題提起してきた。
チェさん自身が手がけた中で最も大きな反響を呼んだのは、「世界で初めてES細胞のクローンに成功した」と2004年に発表して国民的英雄となっていたソウル大学のファン・ウソク教授の研究について、それが捏造であることを告発した05年の特集だ。英雄の名誉を傷つけたことにより、局には抗議が殺到し、スポンサーも全て降板。「MBC開局以来の危機」とまで言われたが、2カ月後、ソウル大の調査で『PD手帳』が正しかったことが証明された。
そんな敏腕プロデューサーであったチェ・スンホさんだが、12年に、不当な理由で解雇されてしまう。チェさんだけではない。08年に保守派の李明博政権が成立して以降、MBCとKBS(韓国放送公社)では経営陣と局職員との対立が激しくなり、プロデューサーやキャスター、記者たちが次々と懲戒、配転、さらに解雇されるという事態が続いた。何らかの処分を受けた人は200人以上だという。一体なぜ、そんなことが起きたのか。
人事介入で変質する公共放送
冒頭の言葉のように、チェさんはかつて、政府の放送への介入などもうあり得ないと考えていた。1987年以降、韓国では年を追うごとに民主化が進み、2003年には民主化運動世代が担うリベラル派の盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権が成立するに至った。
次の李明博の当選で保守政権が10年ぶりに復活したが、経営者出身で合理主義者の李は実利的でバランスのとれた政治を行うだろうと、多くの人が考えていた。
ところが予想に反して、李明博は大統領に就任して間もなく放送への介入を始める。閣僚候補の不正スクープなど新政権の足元を脅かす報道が相次いだことに危機感を抱いたのだ。
KBS とMBCは、NHKと同じく公共放送である。KBSが受信料で運営される公社であるのに対して、MBCは公益法人が株主として所有する企業で、広告収入で運営される。どちらの社でも社長は国会などの推薦を受けて大統領が任命するが、委員会や理事会などが多重に関与することで政権が放送に介入しにくい仕組みが法的に担保されている。だが李明博は、その立法趣旨に反した運用で自分の意に沿った人間を両社の社長に据えることに成功した。
新経営陣の下で、公共放送は急速に変質していった。批判精神を持つ時事番組は打ち切られ、リベラルな姿勢で人気のキャスターは降板させられ、風刺で鳴らしたコメディアンはテレビ画面から姿を消した。「こんにちは大統領です」と李明博自らが登場する番組までもが作られた。
「政権が少数の人間を送り込んで放送局を思惑通りに牛耳ったのです」(チェさん、以下同)
こうした状況に異を唱えたのが、職員の大部分が参加する労働組合だ。公共放送には、政権に奉仕するのではなく国民の側に立って権力を監視する役割がある。労組はストやアピール行動を通じて経営陣に抗議する。だが経営陣は、その先頭に立った記者を会社が所有するアイススケート場の管理人へと配置転換するなど、容赦ない人事で封じ込んだ。
2012年の大統領選挙でも保守派の朴槿恵(パク・クネ)が勝ったため、KBSとMBCの状況は変わらず、むしろ悪化していく。朴槿恵大統領のことを「隠れた中国語能力」「アイドルのような人気」といった具合に持ち上げる一方で、セウォル号沈没事故のように政権に都合の悪い出来事については小さく報じるようになる。言論人たちにとっては暗黒の9年間だった。
昨年製作された『共犯者たち』は、当時の映像や証言を通じて、この時期に何が起きていたのかを明らかにした。公共放送の精神を守ろうとした言論人たちの抵抗と、公共放送のあり方を歪めた経営者たちの姿を描き、その責任を追及している。
言論人は市民と連帯する
『共犯者たち』に描かれている言論人たちの抵抗のあり方は、日本の私たちには新鮮に見える。そのポイントは「労働組合」と「市民との連帯」だ。
言論人たちは労働組合を通じて抵抗している。プロデューサーやキャスターをはじめ、放送局職員の大部分が組合に加盟しているのも驚きだが、賃上げのためではなく言論の自由を守るためにストを行うのも、日本では考えられないことだ。チェさんによれば、その背景には韓国の歴史的事情があるという。