日本の政治家がワシントンのシンクタンクで演説することで効果的に持論をアピールするという手法も、しばしば使われる。たとえば、12年に石原慎太郎東京都知事が尖閣諸島の購入をぶち上げたのも、ワシントンのシンクタンク「ヘリテージ財団」での講演の席上だった。ワシントン発の提案であれば、メディアも大きく取り上げるからだ。
目からうろこが落ちるような話である。私たちがアメリカの圧力と思っているもののうち、少なくとも一部は、東京発ワシントン経由の「日本製圧力」かもしれないわけだ。
ところで猿田さんは、なぜワシントンの政治をそれほどに熟知するようになったのだろうか。
日本の外交官が動かないなら私が動く
「小学校のころには、大人になったら国連で働くんだって決めてました。変な子どもでしょ」と猿田さんは笑う。大学に入学すると、実際にアムネスティ・インターナショナルなどの国際人権団体で活動するようになった。最貧国の人々のために働きたかった。
大学卒業後、猿田さんは、アフリカの難民キャンプで働き始める。タンザニア、ルワンダ、ブルンジ……。司法試験に合格していた 猿田さんに与えられた仕事は、現地の高校生に人権について教える授業をすること。民族間で殺しあう内戦を繰り返してきた国で、国連人権宣言などをベースに、差別について、人権について、自由について教える。「高校生」の中には、戦争で学校に行けなかった40代、50代の人たちもいた。その後日本に戻って弁護士として仕事を始めた後も国際人権を中心とした活動を続けた。やりがいもあり充実した日々だった。
このころ、徐々に日本の空気が変わっていく。イラクに自衛隊が派兵され、第1次安倍政権が憲法改正のための国民投票法を成立させた。猿田さんは自分の国の雲行きが怪しくなってきたのでは、と不安を感じるようになった。次第に、国際人権だけでなく、日本に関わることにも取り組みたいという気持ちが膨らんでくる。自分が重ねてきた国際的な経験を生かして、日本の問題について取り組む方法があるかもしれない。
猿田さんはその後、ニューヨークにあるコロンビア大学のロースクールに通って国際人権についての勉強を続けた。さらにワシントンの大学院に進み、紛争解決学を専攻していた09年、日本で民主党政権が誕生した。日本の友人の話やインターネットを通じて、新しい政権への期待と熱気が伝わって来た。日本がいい方向に変わるかもしれない――。
ところが、ワシントンの日本人社会の反応は正反対だった。
「お通夜みたいだったんです。自分が東京にいない間に民主党政権誕生というとんでもない事態が起きて、日本は終わってしまった、という感じ」
東京との雰囲気の激しい落差に驚いた。
鳩山政権は、辺野古新基地建設の断念と普天間基地の「最低でも県外」移転を掲げ、沖縄の人々から喝采を受ける。ところが、実現への動きは難航する。それどころか反対に鳩山首相の方が追い詰められていく。
「沖縄の友人に、なんで首相があれほど訴えているのに状況が動かないの? ワシントンで日本の外交官は何をしているのって言われたんです。じゃあ自分が動いてみようかなと思いました」
さまざまな問題でロビイングを行っているアメリカの友人たちから、アポの取り方や補佐官との付き合い方などのアドバイスを受けながら、議員やシンクタンクの事務所に飛び込んだ。衝撃を受けたのは、下院外交委員会のアジア太平洋環境小委員会(現在のアジア太平洋小委員会)で委員長を務める議員と会ったときのこと。沖縄の基地問題を担当するはずの彼は、「沖縄の人口は2000人くらいですか?」と聞いてきた。あ然としながらも「100万人以上はいます」と答えると、彼はこう語ったという。「では、飛行場を一つ、つくってあげることがその人たちのためになるのでは」。アメリカ側が沖縄の状況を全く認識していないこと、日本の外交当局が沖縄の訴えをアメリカ側に伝える努力を全くしていないことを痛感させられた瞬間だった。
だが、それにくじけずに丁寧に説明を続けると、彼は熱心に耳を傾け、こう言ってくれた。「これは島の人たちの大きな人権問題だ。真剣に考えなくては」。後に彼は基地問題の情報を収集するために来日し、「一番大切なのは沖縄県民の気持ちだ」と語っている(琉球新報2010年1月11日付)。
「打つとこ打てばちゃんと響く」。ワシントン政治の仕組みが見えてくると、ロビイングが面白くなってきた。猿田さんは「国際的な経験を生かして日本の問題について取り組む方法」を見つけたのだ。
多様な声を運ぶ外交の回路をつくりたい
3年間のワシントン留学生活を終えて帰国すると、2013年8月に「新外交イニシアティブ(ND)」を設立した。留学中に応援してくれたジョージ・ワシントン大学のマイク・モチヅキ教授や、元内閣官房副長官補の柳澤協二氏、ジャーナリストの鳥越俊太郎氏など、そうそうたる人々がこの活動の意義の大きさを理解して理事を引き受けてくれた。さらに今では、多くの若いボランティアが猿田さんの活動を支えている。発足翌月には、沖縄県名護市がNDの「団体会員」として加入。自治体がシンクタンクに加入するのは異例なことだ。翌年5月には辺野古新基地建設反対を訴える稲嶺進・名護市長の訪米をコーディネートした。アメリカ政府や連邦議会、シンクタンクの関係者などと48件の面談を行い、ニューヨーク・タイムズやブルームバーグなどの有力メディアが詳細な記事を掲載した。今回の大型訪米団の成功も、この稲嶺市長の訪米の延長線上にある。NDはこれからもますます、沖縄の声をアメリカに届ける重要な役割を果たしていくに違いない。
NDはしかし、沖縄の基地問題専門のシンクタンクではない。その設立趣意書では「市民社会が外交に積極的に関与することで、日米関係の21世紀的再構築を軸に、アジア太平洋各国間の揺るぎない信頼関係を確立する」ことを掲げており、今では基地問題のほかに、原子力エネルギーに関する日米関係についての調査、TPPをめぐる議員交渉、さらには中国外交部との意見交換まで幅広い活動を展開している。
「外交にも民主主義が反映されるべきで、一部の外務官僚や大企業に独占されたままではいけない。私たちは、これまでの外交で反映されてこなかったさまざまな層の多様な声を運ぶ活動をしたいのです」
アジアやアフリカの紛争地で活動しながら模索を続け、世界政治の中心とも言えるワシントンで現実の政治の仕組みを学んだ猿田さんは今、オルタナティブな外交のチャンネルを各国に広げ始めている。それは、日本と各国の平和的な関係を強めることにつながるに違いない。
最後に、安保法制の是非に国論が二分する今、憲法9条とそれが保障する平和主義についてどう思っているか聞いてみた。
「私はワシントンという世界の政治の舞台で、リアリストの世界を見てきました。平和主義で、9条を掲げて軍隊を持たなければ、平和になる――それだけでは世界で通用しないことはよく理解しているつもりです。だけど一方で、『平和国家』という日本のブランドが世界的な影響力を持っていることも知っています。私は多くの紛争地帯を訪ねてきましたが、そうした地域では、『日本は9条のおかげで平和な国なんだ』というのが共通認識になっています。平和な日本への尊敬もあるし、日本みたいになりたいと思っている人もいる。そのブランドを捨て去ってしまうのは、私には非常に危うく、もったいないように思えますね」
現実の世界の中で、したたかに理想に近づこうとしている猿田さんらしい答えである。「平和国家」というブランドをリアルな外交の中で鍛え育てていくのか、投げ捨てて別の道を行くのか。日本がその岐路に立つ今、猿田さんとNDの試みは、「別の道」を考えるヒントを与えてくれる。