つまり、日本がアメリカと軍事的に一体化して彼らに貢献したとしても、アメリカが日本の主権防衛のために戦争してくれるとは限らないし、反対にアメリカの戦争が日本の安全を破壊してしまうかもしれないということです。
これは北朝鮮についても同じです。日本と北朝鮮の間には、領土問題のように、戦争に至るほどの大きな対立要因はありません。にもかかわらず北朝鮮の核やミサイルが私たちにとって大きな脅威となるのは、米朝戦争が始まったとき、北朝鮮が在日米軍を叩くことを目的として日本にミサイルを撃ち込もうとすることが確実だからです。
2017年2月14日、安倍晋三首相は衆院予算委員会での答弁で、北朝鮮がミサイルを日本に撃ち込めばアメリカがこれに報復する、それをはっきりさせておけば北朝鮮の攻撃を抑止できる、という主旨のことを言いました。これは「懲罰的抑止」という考え方です。
しかし、北朝鮮が日本にミサイルを撃つとすれば、それはアメリカに攻撃されたときか、あるいは極端に追い詰められたときです。そのとき、報復の恐怖が抑止になりますか。さらに言えば、そのミサイルに核が搭載されていたら報復に何の意味がありますか。つまり、北朝鮮との関係では、米ソのような古典的な相互抑止の構図をつくれるかどうか疑わしいのです。さらに言えば、アメリカの攻撃から身を守るために核武装しようとしている北朝鮮に対して、軍事的圧力をかけることで核を放棄させようというアメリカの長年の試みが、逆効果だったのは明らかです。だからこそ今、手詰まり感が漂っているわけです。
こうして吟味してみると、冷戦時代とは異なり、日本とアメリカの間で安全保障上の利益が一致しなくなっていることが分かります。主権ではなく覇権をめぐる相対的なせめぎ合いの時代に、アメリカが日本の主権や安全にとって有益な軍事的選択をしてくれるかどうかは全く分からない。場合によっては、日本の安全に致命的な結果をもたらす選択をすることがあるかもしれない。つまり、アメリカと軍事的に一体となり、アメリカの戦争に積極的に貢献することが、そのまま日本の安全を高めるという構図は成り立たないのです。
安全保障の目的をよく考えなければなりません。私たちは、何を守りたいのでしょうか。アメリカが戦争を行う最前線基地を守りたいのか。それとも日本自身の安全を守りたいのか。
「対立の種」を摘むのが政治の役割
日本の安全を守りたいのであれば、必要なのは、核ミサイルが着弾した後で報復できる能力ではなく、核ミサイルが飛んでこないようにすること。つまり、戦争の危険性を低くすることです。そのために必要なのは、「戦争の種」「対立の根」を取り除く政治的努力です。
戦後の日本の歴代政権は、「専守防衛」を日本の安全保障政策の基調としてきました。専守防衛とは何でしょうか。それは単に自衛隊の装備や運用の問題ではなく、第一に、他国との関係で自ら進んで戦争の種をまかないようにすること、戦争にならないように行動するという政治の意思の問題です。もちろん、丸裸ではまずいから自衛隊というかたちで一定の備えは持つわけですが、軍事を政治の手段としては使わない。
さらに言えば、専守防衛とは、戦争の種、つまり対立の根を一つ一つ取り除いていくことで戦争の可能性を減らしていくことでもあります。
単にある国の軍事力の規模が大きいからというだけで、その国が日本にとって脅威となることはありません。例えばアメリカの軍事力は強大ですが、日本にとって脅威ではない。脅威とは、「能力」と「意思」のかけ算です。つまり、その国の軍事力が脅威となるのは、 その国との間に軍事的対立、緊張があるときです。そして、軍事的な抑止のみを考えて軍備強化で対応すれば、相手もそれに恐怖を感じて軍備強化で応酬し、かえって危険は増大する。
そうではなく、対立の根はどこにあるのかを考え、それをどう緩和していくかを考えることが、安全保障にとって最も大事なことなのです。対立の要因が歴史認識の違いであれば、認識の違う相手を屈服させるのではなく忍耐と寛容で氷解させる。無人島の主権が問題であれば、例えば国境線そのものを幅を持ったものとして考えて対立をコントロールすることだってできる。知恵を絞って、戦争につながる緊張を解き、脅威を軽減していく。「国を守る」とは、そういうことです。
それぞれの国の政治が引き起こした対立なのであればなおさら、そのせいで戦争が起きないようにするのが政治の責任です。「名誉」のために無人島の主権をめぐる戦争が起こって多くの命が奪われたり、経済が破壊されたりすれば、それは軍事ではなく政治の失敗です。
「大国ノスタルジー」の矛盾
ところが現状では、日本の政治は、中国との関係でも北朝鮮との関係でも、アメリカとの軍事的一体化に頼ることでますます緊張を高めています。その結果、状況は日本国民の生命と安全をむしろ危険にさらすような方向に向かっている。
その背後には「大国ノスタルジー」とでも言うべき国民感情が潜んでいるのではないかと、私は思っています。
日本は戦前、周辺諸国を植民地として支配する強大な国家でした。戦後もまた、軍事的には小規模でも経済大国として大きな存在感を持っていました。ところが冷戦終結以降、世界は大きく変わってきました。中国は経済発展を遂げて大国となり、韓国も先進国となった。もはやかつてのように日本が東アジアにおいて大国としてふるまうことはできなくなっています。
ところがいまだに、「中国には負けたくない」「韓国ごときに文句を言わせたくない」という大国としての気分が根深くあるのではないでしょうか。だから中国と張り合おうとするし、韓国に対して不必要に非妥協的な態度の外交を行うことになる。
ところが現実には、中国は昔とは違って、日本が独力で張り合えるような国ではない。そこで、アメリカの後ろ盾に頼ることで中国に対抗するという選択をしている。しかし、大国であり続けるためにアメリカへの依存を深めるというのは、明らかに矛盾です。「かつて日本は大国だった」というノスタルジーに引きずられて、矛盾に満ちた政策が推し進められているのではないかと思うのです。
繰り返しになりますが、私たちは何を守りたいのか。それを考えなければなりません。
「大国」としての自負と影響力を守るためにアメリカへの軍事的依存を深め、そのために戦争してもいいという国になるのか。それとも、大国ではないミドルパワーの国として、国民の生命と安全を守るために専守防衛を貫き、政治的努力を通じて戦争の危機を低減していく道を進むのか。
それは国民の皆さんが決めることです。ただ一つだけ言っておきたいのは、あなたにその選択の結果を引き受ける覚悟はありますか、ということです。
「戦争の重さ」を受け止める覚悟はあるか
「戦争」を選択した場合、それを実際に行うのは兵士たちです。戦争とは、殺したり、殺されたりすることです。兵士の役割を果たす人は、一つしか持っていない生命を、戦争のために差し出すのです。それが「戦争のリアリティ」です。その重さを受け止めないで軽々しく戦争を論じることを、私は人として許せません。
逆に、自衛隊の存在に反対するという人にも言いたい。あなたは外国が侵略してきたときに、自衛隊に頼らずに体を張って立ち向かう覚悟がありますか。あるいは、そうした事態にならないよう、相手の言い分を受け入れ、なおかつ独立を失わないような知恵と覚悟がありますか。これは、「日中友好」といった美しいスローガンで済む話ではないのです。
生命を差し出すのは兵士たち。彼らに命令を下すのは政治家です。しかし最後の責任は政治家を選んだ国民にあります。ですから、どのような選択を行うのであれ、安全保障については、国政の方向を決める国民としての責任感を持って考えてほしいのです。