スーツを着て街を歩く人は「男性サラリーマン」で、ベビーカーを押しながら歩く人は「お母さんで主婦」といったように、人間は相手の服装や持ち物を見て、属性を判断してしまうところがある。しかし雑誌「暮しの手帖」の名物編集長・花森安治氏はスカートを履いていたし、先日偶然会った知人女性は「ラクだから」という理由で、虎壱の鳶用ニッカズボンを履いていた。女性だから、男性だから、会社員だから、主婦だからと、属性のイメージに自分の外見を合わせる必要など、本当はどこにもないのかもしれない。
東京大学東洋文化研究所教授の安冨歩さんは、「男性のフリ」をやめてスカートを履き、ファッションを楽しみだしたことで、自分らしい生き方ができるようになったと言う。そして同時に女性の装いをする男性に、「同性愛者」や「性同一性障害」といったカテゴリーを当てはめることの暴力性を指摘する。それは、誰かがイメージを作り出して、人に押し付けるものに過ぎないからだ。実際、安冨さん自身は異性愛者で、やはり異性愛者の女性パートナーとともに生活している。
安冨さんはこの「イメージと事実」の違いは、わずか13年で崩壊した「満洲国」(1932~45年)にも当てはまると語る。
「満洲と聞いて人々が抱くイメージって『赤い夕陽が地平線に沈む大地を、満鉄が駆け巡る』みたいな、ロマンあふれるものですよね。でもそれは日中戦争前のメディアが作り出したイメージで、リアルな満洲は違います。鉄道のできる前、そこは樹海と呼ぶにふさわしい、大森林地帯でした。満洲国を支配していたインテリ層は新京(長春)や奉天といった南満洲鉄道(満鉄)沿線の都市部に住んでいて、後背地のことなど、本当はよく知らなかったんです。満蒙開拓団として日本から移住してきた人たちも、外界から遮断された開拓村に引きこもり、中国人などとの交流はほとんどありませんでした。実際に住んでいた人たちですら狭い範囲しか知らなかった。「夢とロマンの大平原」というイメージは、侵略を煽るためにメディアが作り上げた幻想です。それを日本人は未だに、追っているに過ぎません」
安冨さんは最近では「女性装の大学教授」としてメディアに登場することが多いが、研究のメインテーマは「満洲国の金融」だ。2015年6月には『満洲暴走 隠された構造』(KADOKAWA)という新書を出版し、満洲国の成立と崩壊にいたるまでのプロセスを、現代の日本とリンクさせながら解説している。
大学卒業後に当時の住友銀行に就職するものの、バブル時代の狂乱を目の当たりにして退職を決意し、京都大学大学院に進んだ。そこで満洲国の経済史に興味を持った。
「最初は理論経済学を研究するつもりだったのですが、大学院試験のために日本経済史を勉強したら面白くて、経済史を専門にしようと決めたんです。でも日本ではなく中国の経済史に興味があったものの、中国語があまりできなくて(苦笑)。台湾か満洲なら日本語で研究できることに気づいたのですが、満洲は13年間で終わるのに、台湾は歴史が50年以上ある。面倒なので短い方がいい(笑)。そしてちょうどその頃、満洲中央銀行のOBたちが『満洲中央銀行史』(東洋経済新報社、1988年)という本を出版したので読んでみたら、引き込まれてしまって。それが満洲を選んだ理由です。
1932年に満洲国に中央銀行が作られたことも知らなったし、独自の国幣(通貨)が発行されていたことも知らなかったので、いざ研究を始めてみたら驚きの連続でした。そして私は高校生の頃から、安部公房(1924~93年)が大好きでした。彼の作品に『けものたちは故郷をめざす』という、敗戦で満洲に取り残された少年が1人、日本を目指して極寒の地をひたすら歩くという作品があるのですが、作中の荒涼とした風景と、ロマンあふれる大地のように言われる満洲のイメージがまったく食い違っていて。『この違いは何なのだろう?』という疑問もあったんです」
満洲を支配した「凡庸な悪」は、今も生きている
満洲は現在の中国東北部に位置し、ロシアと朝鮮半島、そして内モンゴル自治区と接している広大な地域だった。まずは清が近代化を推進しようとし、次にロシアが鉄道を作り、日露戦争を経て1906年に満鉄が生まれた。そして28年に張作霖政権が関東軍の謀略により爆殺され、31年に満洲事変が勃発し、翌32年に満洲国が作られた。満洲国とかかわりが深い満鉄の初代総裁は、元台湾総督府の民生長官だった後藤新平。満鉄は鉄道会社でありながら、満洲を植民地化するための会社でもあったのだ。
そもそもなぜ、当時の日本人は大陸を植民地にしようとしたのか。「日本が植民地にしたことで、近代化が進んだ」などという言説を耳にすることもあるが、善意で大陸に向かったとは、個人的にはとても思えない。
「当時の日本はおそらく、ロシアが怖かったのでしょう。ロシアが怖いから朝鮮に手を出して、清国と戦争をすることになって、負ければ良かったのに勝ってしまった。それで台湾を手に入れたものの、遼東半島をめぐってロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉を引き起こし、不凍港欲しさに満洲を狙っていたロシアの干渉を許してしまった。当時の朝鮮半島には明成皇后(閔妃)などの親露派が政権にいたこともあり、これでは朝鮮半島がロシア化してしまうので、それに脅威を感じたのでしょう。それで日露戦争を起こし、なんとか勝った日本はロシアから東清鉄道(ロシアが満洲北部に敷設していた鉄道。満洲里からハルビンを経てウラジオストックまでのルートと、ハルビンから長春を経て旅順を走るルートがあった)の、長春から旅順までの区間を獲得しました。これが満鉄になっていくわけですが、日本はたとえロシアが怖かったとしても、日本海沿岸地域を守れば十分だったはずです。なのにどんどん内陸部に向かっていったのは、防衛を口実に利権を得て儲けてやろうという、悪い奴らがたくさんいたから。奴らは自分たちの利益を守るために満洲にかかわり、国民を欺いていくわけです」
当時の満洲にはもともと住んでいた満洲人や中国本土から移住した漢人、そして朝鮮半島から来た人などがいて、まさに人種のモザイク状態だった。そんな中で関東軍(満州で独裁的な権限をふるった日本陸軍組織)の石原莞爾(1889~1949年)らによって満洲事変が引き起こされた結果、満洲国は日本の半植民地となった。では石原莞爾こそが「悪い奴らの代表」なのかと言ったら、「そんなことはない」と安冨さんは首を振った。
「石原は『地下資源もなく科学力も劣る日本が世界最終戦争に勝ち抜くには、強い国に作り変えるか軍備を放棄するかの、どちらかしかない』と考えていました。だから『全支那を利用する』ことを目指して満洲事変を起こしました。彼は、総力戦という恐ろしい戦争をどう戦うかを真剣に考えて、こういう妄想を抱いたのです。しかし、総力戦のことなどよくわかっていないシンパが群がることで、日本はあらぬ方向に向かってしまった。石原はその後、拡大する中国戦線を止めようとしたのですが、もはや彼の手に負えるものではなくなっていました。確かに最初のきっかけを作ったのは石原莞爾など関東軍将校かもしれませんが、勲章と出世欲しさに暴走した陸軍関係者や、ひと山当ててやろうと目論んだ山師など、利権に群がる多数の『悪い奴ら』がいたのです」
一人の巨悪に全員が支配されていたのではなく、名もなき小悪人たちが積極的に加担することで暴走して、大陸を侵略していったのか。しかし安冨さんは、「悲劇は悪人が悪事を働くから起きるのではない」とも指摘する。
「個々の軍人も個々の役人も個々のビジネスマンも、自分に与えられた使命を果たすために、必死で働いていました。その必死の動きで物事が回り始めると、なぜかシステムそのものが暴走してしまうんです。そしてシステムが崩壊すると、今度は誰もが『まさかこんなことになるとは思わなかった』と言うんです」
まさにドイツの政治哲学者ハンナ・アーレント(1906~75年、著書『イェルサレムのアイヒマン』など)が、元ナチス官僚の戦争犯罪について分析したように、「凡庸な悪」そのものによる悲劇と言える。だがこれは第二次世界大戦前から戦中にかけての話ではなく、今この時代にも存在するという。
「一番の例は、原子力発電所です。」
立場主義が、誰にも止められない暴走を生む
「原発は、日本が核武装するために導入されました。そうやって手にしたプルトニウムを、再処理してロケットに詰め込むと、核ミサイルができるわけです。「科学技術庁」という欺瞞的な名前の機関がありましたが、主としてやっていたことは、高速増殖炉と核燃料の再処理とロケット開発でした。本当の名前は、「核ミサイル開発庁」だったわけです。