国税庁が発表した15年分の民間給与実態統計調査によると、男性の平均給与は521万円なのに対し、女性276万円と約半分にとどまっている。働いても得られる給与は少ないのに「保育園落ちた日本死ね」と叫ぶ母親は、「そんな言葉遣いでは共感を得られない」とバッシングされ、政府は女性活躍推進を謳う一方で、「女は産む機械」という言葉が政治家の口から飛び出す。女性にとってまさにこの世は「ヘル(地獄)日本」なのか。
タレントでエッセイストの小島慶子さんは14年に日本から飛び出して、家族でオーストラリアのパースに移住した。以来、日本とオーストラリアを往復する生活を送っているが、彼女はかつてTBSの「女子アナ」だった。
女子アナになるには、誰よりも「美しく」「聡明であること」を求められ、かつ「リアクションのうまさ」や「言葉の明瞭さ」もないと、失格の烙印を押されてしまう。常に視聴者、その中でも特に男性から一方的なジャッジを下される立場を15年間こなしてきた彼女の目には、今の日本や日本のマスメディア、そして女性が置かれた状況はどう映っているのだろうか。やはり「ヘル」なのか、それとも――。
滅私奉公の価値観が、対立を煽る
「日本のマスメディアってとてもマッチョな体質で、本当に何とかしたいとずっと思っているんです。だってバラエティー番組の中で女性に向かって『更年期じゃないの?』と言ってもネタになってしまうし、女性も自分から『私なんてブサイクだから』『おばさんだから』と自虐で笑いを取ることが、日本では日常的ですよね」どんな人であっても性別や年齢、外見で差別されてはならない。なのに今の日本は男性も女性もセクハラをはじめ、差別につながる価値観を自覚なく内包している。それが一番の問題だと、「女子アナ」だった頃からずっと考えてきたと語る。
「何の経験も実績もない私でも『新人女子アナです』と言うだけで、周りからとてもちやほやされた時期があります。自分は美人の部類に入ると自覚していたし、勉強もできるほうだった。話もうまいと思っていたので、女子アナになれる自信はありました。同世代男性の平均以上の収入や待遇を得られるし、その上ちやほやしてもらえるなんて夢のような話ですよね。でもいざなってみたら『これは何かい? 若くてかわいい女性の役割を嬉々としてこなすのであれば、男と同じ待遇を与えてやってもいいよってことかい?』と、自問の日々でした(苦笑)。そもそも『女子アナ』って職業が成立する社会自体がおかしいんですよね。でも『若くてかわいい女の子』であることが男社会を渡る武器になるのは、あらゆる仕事に共通しています。だって『女の子なんだからお酌してよ』とか『もっとオシャレに気を使え』とか、どの職場でも普通に聞かれる言葉ですよね。挙句の果てには『女が反論するとは生意気だ』『女のくせに厚かましい』と言われ、意見すら聞いてもらえない。それが日本の女性が置かれた現状だと思います」
女性が言葉を奪われてきたことへの責任は、女性対男性のバトルを煽り続けてきたマスメディアにも大いにある。稚拙な演出で視聴率を稼ぐ番組は確かに多いが、作り手に悪意があるかと言えば、決してそんなことはない。ジェンダーやリテラシーを学ばないまま大人になってしまったゆえの、無知と無自覚がなせる罪だと小島さんは分析する。
「なぜなら不自由な思いをしているのは、女性だけではないと思うからです。男性だって『男らしくしろ』『会社員なんだから会社に従え』といった『らしさ』を押し付けられてきたことで、判断基準が『○○らしいか否か』になり、そこからはみ出す恐怖を感じていると思います。
またメディアはことさら『女性対男性』の対立を煽りがちですが、女性にだってマチズモ(男性らしさを重んじる価値観)的な物言いをする方はいます。『育休を取りたいなんて贅沢だ』とか『母親は女を捨てて、子どもにすべてを捧げろ』とか、女性の口からも実際よく聞きますよね(苦笑)。人間は人生のステージごとに仕事とプライベートのバランスが変わっていくのに、『自分を犠牲にして働いたり尽くしたりする人が素晴らしくて、それ以外はみんな落ちこぼれだ』という価値観こそが、男女共通のしんどさであり、同時に対立を生む原因になっていると思います」
絵にならない人生を耐えることが、平和につながる
男女の対立は一見、戦争とは無関係に思えるかもしれない。しかしアメリカ大統領選挙ではヒラリー・クリントンが女性であったことも、負けた理由と言われている。そして男性のドナルド・トランプが次期大統領に選ばれて以降、イスラム教徒の女性がヒジャブをはぎ取られそうになるなど、アメリカではミソジニー(女嫌い)とゼノフォビア(外国人憎悪)がわき始めている。この不毛で危険な争いから降りるには、一体どうしたらいいのか。小島さんは元文藝春秋の編集長で作家の半藤一利氏の『15歳の東京大空襲』(ちくまプリマ―新書、2010年)という本の中に、ヒントを見出したそうだ。「半藤さんは昭和史などを書かれてきましたが、自身の戦争体験についてはこれまでずっと、語るのを避けてきたそうです。なぜなら戦火を生き延びたことは美談にされがちですが、それこそ川に落ちた時に助けを求める誰かの頭を踏むとか、逃げている時に道端で『水をくれ』とせがむ人を見捨てるとか、人に言えないようなことをしないと空襲を生き抜くのは無理で、本当はそうしてきた人ばかりだった。美談とは程遠い経験をしているのに、生き延びたというだけで物語の登場人物にされてしまう。そこを危惧してあえて語らずにいたのだと。
私は子どもに戦争の話はしていますが、自身の体験を伴っていないわけですよね。そうするとコンテンツ化されたもので戦争を見てしまうので、おのずと主人公に自分を重ねてしまう。死線をさまよいながらも奇跡の生還を果たしたとか、つましくも健気に日常を生き延びたとか、自分はそういう物語の主人公だと錯覚しがちです。でももし実際に戦争になればほとんどの人が主人公に踏まれる亡骸や、主人公が無事に乗り越えた空襲の名もなき被害者になるのがリアルだと思うんです。その死は誰にも振り返られることもなく、誰の記憶にも残らず紙屑のように消えていく。戦争体験のない人が戦争を考える時には、生き延びる主人公でも、まして戦争を指揮する国の立場でもない『名もなき自分』の視点で考えなくてはならないのです。
じゃあ戦争も体験してないし、主人公でもない。そんな私にできる平和活動って一体、何があるのだろうと悩みながら読み進めていくと、『これからの人間のすべきことが自然に浮かんできます。自分たちの生活のなかから“平和”に反するような行動原理を徹底的に駆逐すること、そのことにつきます』『自分たちの日常生活から戦争につながるようなことを、日々駆逐する、そのほかにいい方法はないのです』と、日常生活の中で生まれる、まさに戦争につながる「芽」を駆逐することを繰り返し訴えている箇所があって、『これだ!』と私なりにひらめきました」
戦争の芽。それは自分と異なるものを排除したり暴力的に支配したりすることで、学校のいじめや職場のハラスメント、「100点を取らなければうちの子ではない」といった親から子への抑圧など、確かに日常生活の中に多数存在している。その芽を駆逐することが現代の平和活動なのだと、半藤氏の言葉から気づきを得たそうだ。
「生きる上で大事なのは、『絵にならない人生を耐える』ことだと思うんです。メディアが対立を煽るのは、それが絵になるからですよね? 敵と味方を分けるとわかりやすいし、現代の母親が苦しんでいる母性神話、いわゆる『母親らしさ』も絵になるし、勝ち組と負け組もまた絵になります。でも日常生活で起きるほとんどのことは、地味すぎて絵にならない。物事ひとつとっても『賛成の部分もあるけど、でもあの点は反対だ。一体どっちと言えばいいのか』と逡巡することばかりで、およそ絵にならない。でもこの『絵にならない曖昧さ』を一人ひとりが受け入れることから、互いの平和が生まれると思うんです。曖昧さを受け入れていたら対立に直面した際に、どちらが正義なのかを瞬時に知ろうとすることよりも、『この人の言葉にはどんな真意があるのか』を考えるようになりますよね。それを習慣にしていけばいいんです。