東日本大震災から5年が経った2016年3月11日、私は宮城県石巻市で、震災後に出会い、ともに活動してきた仲間たちと再会した。
女子高校生サポートセンターColabo(コラボ)の活動は、震災後に石巻市の避難所で、被災した中・高校生に出会ったことがきっかけで始まった。震災から3週間後、当時大学生だった私は、避難所の状況や必要な支援を避難者から聞きとる災害ボランティア活動に参加した。大学の春休みが5月まで延びたので1カ月間ほど石巻市に滞在できることになり、ボランティアとして通っているうち、いくつかの避難所で中・高校生と仲よくなった。
それまで私は自分が10代の頃に経験した、家庭や学校に居場所がなくて繁華街などへ逃げ込んでしまうような「難民高校生」的な苦しみは、東京など都市部の若い人ならではのものだと思っていた。しかし彼らと話していると、震災以前に東京で出会った子たちや私自身と同じような悩みや問題を抱えている人が多いことに気づいた。
このまま避難所にいたい……
ある高校生が仮設住宅への入居が決まった時、「このまま避難所にいられたらいいのに」とつぶやいた。
「震災前、お父さんはいつもお酒を飲んで帰ってきては暴れた。お母さんはうつになって、いつもお父さんからの暴力に耐えていて、最近は中学2年の弟も暴力的で自分が標的にされることもあった。家にいたくない、死にたいという気持ちになった時は自傷行為をした。信じられる友だちや先生がいないから学校にも通えてなかった。でも避難所にいれば、さすがにお父さんも人前で暴力は振るわないし、弟もおとなしい。お母さんと私は代わりばんこで食事当番に行けたし、まわりの人も声をかけてくれたりする。震災があったから、お医者さんにも診てもらえるようになって、夜眠れないことを話したら薬をくれて眠れるようになった。震災前も眠れてなかったんだけど、津波があってからひどくなった。『仮設(住宅)に当たってよかったね』とまわりから言われるけど、あんな狭いとこに入ったらまた家族がどうなるかわからない。部屋も2つしかないし、自分の居場所はなくなると思う」と。
震災による影響は確かに大きいが、震災前も貧困、家庭内暴力(DV)、虐待、家族の精神疾患、介護による家族の疲弊など様々な困難が重なり、勉強する環境や気力もなく不登校になり、家や学校に居場所がないと感じている子どもたちがいた。
そうした中で、都会と地方で環境は違っても状況や状態は同じ、ということに気づいた。Colaboで出会った女の子たちの話をすると「うちは田舎でよかった」「都会は怖いわね」と安心したがる大人がいるが、実際、Colaboには全国各地の中・高校生から相談が寄せられている。宮城県に住む人からの相談も、今月だけで3件あった。
何かしたいという気持ちの行き場
震災直後、避難生活を送る中・高校生たちは、避難所で支援物資の仕分けや掃除などの手伝いをしていた。しかし2カ月後のゴールデンウィークあたりから、全国からたくさんの災害ボランティアが集まったため、彼らに任されていた仕事は減っていった。彼らとの会話の中で、「自分も何かしたい。でも自分には何もできることがない」という声をよく聞いた。「被災地」と呼ばれることになった地域で、「被災者」として扱われ、支援の対象としてしか見られないことに現地の中・高校生も違和感を持っていた。
被災した女子高校生に「ボランティアに来るなんて、すごいね。私も何かしたい」と言われ、津波で流れてきた泥の除去作業の手伝いに一緒に行ったこともあった。母親からは「何かしたいという娘の気持ちの行き場を作ってあげたかったけど、私たちも他のことで精いっぱいだったし、高校生に何ができるのかわからなかった。考える余裕もなかった。娘は避難所から出る理由も機会もなくて、落ち込んでいた。連れ出してくれてありがとう」と言われた。
「大学生たちはボランティアでがれきの除去を手伝っているのに、『お前はまだ子どもだから』『危ないから』とやらせてもらえない」と、嘆く男子高校生もいた。災害ボランティアが小学生の遊び場などを開設し、その手伝いをすることはあっても、自らが担い手になって行えるような活動はまだなかった。
中学生、高校生を活動の担い手に
私は「そんな中・高校生たちと一緒に何かしたい!」と、11年5月、Colaboを立ち上げた。避難所で仲よくなった生徒が通っていた宮城県立女川高校(14年3月31日に閉校)と、石巻市桃生町にある和菓子製造・販売会社の大沼製菓に連絡をとり、「支援金付きのお菓子の開発をしたい」と相談をした。
津波で大きな被害を受けた宮城県女川町の高台にあった女川高校は、震災後に避難所となっていた。しかし指定避難所ではなかったため、支援物資がなかなか届かなかった。そんな中で、初めて届いた物資の一つが大沼製菓の和菓子だったという。内陸で津波の影響を受けなかった大沼製菓が、保管していた和菓子を避難所に届けてほしいと消防隊に託したのだ。女川高校の校長は、「大沼製菓の和菓子を食べて、3日生き延びた」と話した。
そんな偶然から、高校生たちとの活動が始まった。
支援金付き菓子『たまげ大福だっちゃ』
震災から3カ月後の6月から、毎週高校でミーティングを重ねた。活動の資金は助成金に支えられ、大学生だった私は宮城県を拠点にして、週に1回大学の授業のため東京へ帰るような生活をしていた。
高校生らは自分も被災者ながら、被災した人に元気になってもらいたい、食べて笑顔になれるお菓子を作りたい、復興の希望になるお菓子を作りたい、震災後に支援してくれた全国の方々に感謝の気持ちを伝えたい…という想いを持っていた。そうして『笑顔・幸せ・楽しくなれる』をコンセプトに、支援金付き菓子『たまげ大福だっちゃ』が完成した。
「笑顔になれる色は?」「幸せになれる味ってどんなイメージ?」とみんなで話し合い、色や味、形やサイズ、商品名やパッケージも考えた。家が津波で流された様子や、地震によってヒビが入り、壁が崩れるなどした校舎で授業を続ける高校の様子をビデオメッセージにして伝えた。商品が完成すると全国の学園祭やイベントで販売協力者を募り、講演活動も一緒に行った。私は約1年間、宮城県内に家を借りて東京と東北を往復する生活をした。
大学4年生の時、私が体調を崩して入院したこともあり(そのため彼らの卒業式に参加できなくなった私に千羽鶴やメッセージをくれて泣いた)、女川高校に通えなくなってからも、その高校生たちの想いと活動は後輩に受け継がれた。12年に生徒募集が停止された後も、『女川AGAIN(あがいん)ボウル』というクッキーが最後の在校生たちによって考案され、大沼製菓が販売した。
16年には、宮城県石巻商業高校が大沼製菓とコラボして『きびだんごほうじ茶味』を作った。食べてみたらおいしかった! これらのお菓子はホームページ(http://www.onuma-seika.co.jp)から取り寄せられる。
震災と津波被害が変えたもの
後で知ったことだが、女川高校は県内でも有名な不良高校だった。喫煙やゴミのポイ捨て、態度が悪いなどと、地域からよい評判は一つも聞かれなかった。第一志望で入学する生徒がほとんどいない学校で、複雑な事情を抱える生徒が多く集まっていたという。教師はそんな生徒たちをあきらめず、温かく緩さをもって、時に厳しく見守っていた。教師・生徒という関係以上に、人として生徒と向き合おうとしている先生たちがいた。そんな学校の雰囲気が、私には居心地がよかった。
地域で「女川高校の生徒と一緒に活動している」と話すと「えー、あそこの生徒たちが!?」と驚かれ、「あの子たちがそんなふうに変わったなら、家は流されてしまったけど、震災があってよかったと思える」とまで言う人もいた。生徒たち自身も変わっていったが、大人の見る目も変わっていった。
「自分がこの高校の生徒だということを世に残したくない」と、女川高校に通うことを恥だと話していた生徒会長は、自分たちの行動で周囲の大人たちの見方が変わることに気づき、「地域の人たちから見た高校のイメージを変えたい」という想いを持つようにもなった。卒業時には、堂々と高校を後にした。
合宿をしたり、はしゃいだり、語り合ったり、意見を出し合ったり、ぶつかったり、男子たちがそろってボウズ頭になったり……いろいろあった。大切な時間と青春を一緒に過ごせた仲間たち。今もみんなそれぞれの場所で、悩み、もがきつつ生きている。