「今年はなんの年?」
そう聞かれたら、あなたはなんと答えるだろう。
戦後77年。コロナ禍3年目。そうして令和4年。いろいろな言い方があるが、私にとって今年は「連合赤軍事件から50年」の年である。
事件についてはのちに触れるが、そんな節目の年の2022年5月、元日本赤軍最高幹部の重信房子氏が20年の刑期を終えて出所したニュースが大きく報じられた。同年同月、やはり半世紀前、早稲田大学で学生が殺された事件を描いた樋田毅著『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋、2021年)が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。さらに6月、連合赤軍事件で犠牲となった遠山美枝子氏について書かれた江刺昭子著『私だったかもしれない ある赤軍派女性兵士の25年』(インパクト出版会、2022年)も出版された。
と書いても、「なんのこと?」と思う人が大半だと思う。全部わかるという人は、アラ古希(アラウンド古希)で全共闘とかでバリバリ活動してた「武勇伝おじさん」か、赤軍系のマニアだろう。
かつての私もそっち系のことはチンプンカンプンな一人だった。だけど1960~70年代の、「若者が政治に熱かった時代」には並々ならぬ関心があった。
あなたも「昭和を振り返る」系のテレビなんかで、大学に立てこもる学生や、機動隊と衝突して火炎瓶を投げたりする若者たちを見たことがあるはすだ。
その頃の大きな事件で言うと、70年には「赤軍派」を名乗る学生たちが日航機をハイジャック。「我々は『明日のジョー』である」という言葉を残して北朝鮮へ渡った(のちに「よど号グループ」と呼ばれる)。72年には「日本赤軍」の学生たちがイスラエルのロッド空港で銃乱射事件を起こし、26人が死亡。
なぜ、学生が「革命」などと突拍子もないことを口にしてハイジャックしたり、「軍」とか作ったり、遥か遠い国で事件を起こしたりしているのか。20代前半でこの手の事件を知った私には、何がなんだか皆目わからなかった。だけど、猛烈に興味は湧いた。なぜならテレビに映し出される学生たちは当時の私と同世代だったからだ。
当時の私はバブルの残滓が残る90年代の日本で、「とにかく半径5メートル以外のことは考えずに恋愛と買い物と低賃金労働だけしてろ」と全方向から言われているような日々の中、死ぬことばかり考えていた。生きているというよりは、とりあえず死んでないだけというような日常。
それなのに、ちょっと前の「若者たち」は、「革命」とかとてつもなくデカいこと言って実際にトンデモないことをやっている。一体、この落差はなんなのだろう?
そう思って、獄中20年の刑期を終えて刑務所から出たばかりの「赤軍派議長」が出るイベントに行ったら突然「北朝鮮のよど号グループに会いに行こう」と誘われて初の海外旅行で平壌へ。99年、24歳の頃だ。これをきっかけに人生がおかしくなって今に至るのだが、「政治の季節」は私の関心事であり続けた。
特にひっかかっていたのは、72年に起きた連合赤軍事件。75年生まれの私はまだ生まれていない。
過激化した学生たちが「革命戦士」となるために「山岳ベース」で30人ほどの集団生活を送るところから話は始まる。が、「共産主義化」されていない――雑に言えば「気合いが足りない」――というような理由で仲間による「総括」という名の集団リンチが始まり、次々と命を落としていくのだ。その数、12人。
その後、「あさま山荘」に辿り着いた連合赤軍の5人が10日間にわたって警察と銃撃戦を繰り広げ、逮捕。それによって続々と「仲間殺し」が発覚。世間は学生運動にドン引きし、それは私の世代にまで「若者への政治の禁止」という空気として引き継がれた。
私があえてこのような人々に興味を持ったのは、「若者に政治が禁止されるような空気」の中で育ったからだ。それまで、社会への不満を口にすると「社会のせいにするな」と口を塞がれてばかりだった。が、あらかじめ政治や社会への回路が閉ざされると、様々な問題はすべて「個人の責任」=「自己責任」となる。だからこそ20代前半の頃の私は、フリーター生活から抜け出せなくても「自分が悪いのだ」とリストカットを繰り返していた。周りも似たようなものだった。私は連合赤軍の「子ども世代」にあたるが、親世代の一部が「革命」に燃えていた年頃に、私の周りにあったのは「ネット心中」だった。死に向かうための連帯だ。
さて、今回取り上げたいのは、連合赤軍メンバーの一人・遠山美枝子について。極寒の山小屋で集団リンチの末、25歳で壮絶な死を遂げた女性だ。リンチのきっかけとなったのは、彼女の指輪。母親が何かあった時のためにと持たせてくれた指輪を外さなかったこと、また会議中にブラシで髪をとかしていたことや唇にクリームを塗っていたことなどをあげつらわれ、「総括」という名の暴力が始まった。いわば「女らしさ」を非難され、執拗なリンチの果てに命を落としたのだ。
『私だったかもしれない ある赤軍派女性兵士の25年』によると、もともとキリンビールで働いていた遠山は明治大学二部に進み、そこで学生運動に出会う。ベトナム反戦の気運が盛り上がり、欧米を中心に世界各地で学生運動が熱を帯びていた頃だ。
時の遠山を知る人々から語られるのは、高揚感の中、彼女もまた熱に浮かされるように「新しい世の中を作る」ことを夢見て、若者らしい理想に燃えていたということだ。
しかし、運動内の内ゲバ(仲間同士の暴力的な抗争)が激化し、また逮捕者が相次ぐようになると様相は変わっていく。運動を離れる人が増えるのだが、真面目で正義感と責任感の強い彼女は決して逃げたりしない。その真面目さが、結果的には死に繋がってしまうのに投げ出さない。
一方、革命家男性と恋もするものの、その関係は決して対等とは言い難い。