〈問題飲酒をする人がお酒のことしか考えられないように、その人(その人たち)のことしか考えられなくなる。その人への固着、愛着、その人から受けた(と感じている)拒絶、痛手、屈辱、傷〉
先に、私の数年にわたる「とらわれ」を書いた。死ぬべきというささやき。その多くが、ネットによって蓄積し、刷り込まれていったものだ。死ななければいけない、死んでお詫びしなくてはいけない。多くの人が私に怒り、糾弾し、この世界から消えることを願っている――。いつの間にかその思考がずっと頭の中を支配している。忘れたくても頭を離れない。それなのに、SNSを断ち切ることができない。さすがに傷口に塩を擦り込むような見方はしないし、そこで誰かと交流したりもほぼせず、ましてや議論など絶対にしないけれど、常に内戦状態で、フラッシュバックのきっかけに満ちているXでさえなかなか見ることをやめられない。
私がこの本に手を伸ばしたのは、どこか藁にもすがるような思いからだ。ここに何か、大きなヒントがある気がしたのだ。
本書には「インターネットという人災」という節もある。
〈インターネットは、それが発達していない時代には無関係で済んだ人間を、突然目の前に「関係あるもの」として持ってくるようになった〉
〈こうした閉鎖空間で思い込んだことは固着しやすい。脳にこびりつく〉
私は2000年に物書きとなったのだが、この24年間は、インターネットが普及・発達してきた四半世紀と重なる。そんな中で、「文章を書いて発表する」ということをめぐる環境は本当に、劇的に変わった。
一言でいうと、原稿料は下がり、炎上リスクがブチ上がった。
デビュー当時は、一人の読者に対して手紙を書くような気持ちで書いていた。それは親密な世界で、ここでしか書けない秘密の話がたくさんあり、それを共有することでお互いが生き延びられるような「密室」。私と読む人との間には、前提として大きな信頼感があった。
それが今はどうだろう。ネット媒体で発表した文章はもちろん、書籍の文章の写真がSNSに晒され、切り取った一部だけを取り上げて糾弾される時代となった。「正しさ」から少しでもはみ出すと公開処刑の対象となり、人生終了のリスクがある。それで対価は下がってるんだから、やってられないとしか言いようがない。
そのような状況から広がったのは、当然のごとく、萎縮だ。自分が書き手だからこそよくわかる。あ、この人のこの書き方、炎上恐れてるやつだ。書かなくていい注釈や言い訳ばかり並べて切れ味めっちゃ悪くなってる、等々。そういう炎上対策が施された文章を読むたびにどこかシラけるけれど、気がつけば自分だって時にそうしている。それしか、自分を守る方法がないから。炎上した時、誰も助けてくれないことを嫌というほど知ってるから。
そんなことを書くと、「差別もヘイトもなんでもありのひどい時代に戻りたいのか」という声が聞こえてきそうだが、90年代鬼畜系サブカル的なものがよかったなどと言うつもりは毛頭ない。ただ、「正しくないもの」の居場所が極端になくなると、病む人間が必ず出てくる。厳しく規制して地下に戻るほどにその対象が危険になることは歴史が証明している。
一方で、書き手である私自身にも「正しさ」が押し付けられる。SNSという距離感がバグる場所で、無遠慮に投げつけられる言葉たち。「正しさ」だけではない言いがかり的なものまでをも膨大に浴びているうちに、私の「とらわれ」はより強固になっていった。以下、これまでSNS等で投げかけられたものだ。
“ペットボトルの水を飲むなんて意識が低い”(すみません)。
“肉を食べるなんてありえない、なぜベジタリアンでないのか”(なんと言えばいいのか……)。
“タバコ吸うとかクズすぎる”(もうずーっと前に禁煙しましたが、別に喫煙者をクズとは思いません)。
“もっとパレスチナの虐殺について発信・行動しろ”(できる範囲でデモの呼びかけ人になったり参加したりそれを記事にしています)。
“貧困問題についてあれこれ言うなら自分の家でホームレス引き取れ”(そういう問題じゃないですよね?)。
“かわいそうな動物を救え”(と言われましても……)。
“○○の事件(国内外のあらゆる事件が入る)の被害者の支援をしろ/するな”(自分で決めます)。
“外国人排斥デモについて文句を言うならお前が外国人のゴミ捨て場の掃除をしろ”(どうしてそうなる?)。
“今SNSで話題の○○についてどう思うか態度を今すぐ表明しろ”(私はSNSで話題のあらゆることに反応してコメントするという契約を誰とも結んでいない上、年間5億円支払われてもそのような依頼はお断りします)、等々。
この他、ありとあらゆる種類の罵倒や容姿、年齢などに対する中傷がついてくる。
よく、SNSでバズった人がその反応に驚き、「著名人のメンタルえぐい」などと書いているが、私のような超小物でさえ、日々これほどの言葉を浴びているのだ。
と、ここまで書いてきて見えてきたものがひとつある。私に「世界の悲劇」についてなんとかしろという声は、SNSにより地球の裏側の悲劇まで見えるようになった現在、その不条理さに耐えられなくなった人たちの悲鳴にも思えてこないだろうか。