例えば私たちは、遠く離れた県の保健所で、数日以内に殺処分予定の犬の姿さえスマホで目にする日常を生きている。SNSによって、「知らないで済んだこと」は急激になくなった上、私たちは不条理に敏感であることは良きことという教育を受けてきた。が、人類にとって、世界中の悲劇がこれほど可視化されるという事態は初めての経験だ。「正しい」人間であろうとするほど、スルーできないことが増えていく。そしてSNS上では「見て見ぬふりをする人間は卑怯」という正義を振りかざす人が多くいる。この辺り、何か大きなものが隠れていそうだ。
もうひとつ、書きたい。この数年で私はさらに人が怖くなったのだが、それは「コロナ禍によるオンライン化」による。これまでリアルに行なっていた講演をオンラインですることが増えたのだが、その場合、対面だと決してありえないような攻撃的なコメントを書き込む人が増えたのだ。質問や意見として、「あなたが話した○○について、そんなことは聞いたことがないのでエビデンスで示しなさい」など高圧的なものもあれば、人格を否定するようなものまで。これは対面の講演では決してなかったことだった。何か、生身の人間ではなくコンテンツのひとつとして厳しく評価・チェックされているのを感じるのだ。こんなことに傷つく自分がおかしいのかと思っていたけれど、時々一緒に出演する学者や記者といった人々は私以上に傷ついていたりして(私よりネットで暴言を受ける機会がないため)、やっぱりそうだよね? 私、傷ついておかしくないんだよね? と改めてほっとする。そういう経験をするたびに、人類、たかがインターネットくらいでここまでわかりやすくヤバくなってどうした? と思う。
あと少ししたら、ここまで書いたような現象のひとつひとつが名付けられたり、明確に加害行為とみなされたりしてハラスメントとして広く認知されるだろう。そう思うと、なぜ、みんなこれほど無防備に、デジタルタトゥーで未来の自分を殺す行為をしているのだろうと心配になるほどだ。
さて、『安全に狂う方法』について書いていたら、SNSによって狂った世界で殺されない方法みたいな話になってしまったが、それが私の今の「とらわれ」なのだから仕方ない。
インスタントに救われるような本じゃない。だけど、藁にもすがる思いでこの本を手にとった私は、読んで考え文章を咀嚼し読み返し、という過程で、何か生まれ変わるような経験をしつつある。少しずつ、「とらわれ」が薄れていっているのだ。
赤坂さんの苦しみと読者の苦しみが唯一無二の化学変化を起こすような本。不思議な読書体験の余韻に、今も浸っている。