そんな思いは、私の中に、もう何十年も確実に、ある。精神的に調子がいい日なんかが続くと「お、このままシラフ人生いけるかも」なんて思うが、そんな自信は本当にちょっとしたこと――誰かのなんとなく冷たい態度とかの、勘違いかもしれない程度のこと――でくじかれてしまう。
生きることは、時に苦悩と苦痛に満ちている。だからこそ、人間はいろいろなものに逃避する。アルコールやギャンブルなどの「合法」系に逃げる人もいれば、リストカットや処方薬の大量摂取、過食、または過剰な買い物などの「破滅」系に走る人もいるだろう。その一方で、違法薬物に手を出してしまう人もいる。そんな「逃避」の先にあるのが、依存症の世界だ。
そして依存症と「女性」が結びついた時、世間の偏見が当事者を襲う。
「女のくせにアル中なんて」
「女なのにヤク中なんて」
「女なのにギャンブル狂かよ」
ある意味、同じ症状を抱えた男性よりも、女性のほうがより重い「人間失格」の烙印(らくいん)を押されがちだ。だからこそ、本人は自身に起きている状態を隠してしまう。アルコール依存だったら飲酒していることを隠し、違法薬物の場合ならさらに隠し、生活が破綻するほどのギャンブル依存になっていることを誰にも知られまいと必死で隠蔽(いんぺい)し、時に取り返しのつかないことになる。
ホームレスの社会復帰支援を目的に、路上などで販売されている情報誌「ビッグイシュー日本版」(ビッグイシュー日本)4月15日号の「ギャンブル障害」特集によると、女性のギャンブル依存症患者への早期介入は難しく、どこからもお金を借りられなくなり、家族にも見放され、路上生活にまで追いつめられて、やっと支援団体などにたどり着くケースも少なくないという。
なぜ、突然「依存」について書いているのか。それは最近、たて続けに依存症にまつわる本を読み、いろいろと考えさせられたからだ。
一冊は「アル中ワンダーランド」(扶桑社、2015年)。話題の本なのでご存じの人もいるかもしれない。著者のまんしゅうきつこさんが自らの体験を漫画にしてつづった本書は、彼女の「お酒での失敗」が自虐的に描かれていて爆笑の連続なのだが、読み終えた後にふと背筋が寒くなる恐ろしい本である。
本書によると、彼女は数年前まで普通の主婦だったという。家事とパートと庭いじりに精を出す平和な日々。しかし、自身のブログが話題となり、漫画やイラストの仕事が舞い込むようになってから生活は少しずつ破綻していく。
締め切りに追い立てられ、家事もちゃんとこなさなければと焦り、そのうえ「漫画やブログのネタに困る」という状況が重なる。そのうち、面白い漫画を描いたり、ブログを書くため「気分転換に」とお酒を飲み始めるのだが、これが彼女の心と身体を急速にむしばんでいく。
家中のお酒を飲み干し、常に酩酊(めいてい)状態にあることが習慣となってしまい、お酒を手放せなくなる。いつしか家族に飲酒していることを隠すようになり、家族が寝静まってから夜中にこっそりお酒を買いに行くようになる。どうしてもお酒が入手できない時は、家にあるワインビネガーからみりん、料理酒、化粧水用に買ったエタノールまで飲んでしまったというから壮絶だ。
そのうえ、初めてのイベント出演では、緊張のあまり泥酔して舞台に登場。支離滅裂な言葉を発した後、「いっちょおっぱいでも出しますか」と本当に片乳を披露。その後、舞台上で爆睡。これらの記憶が本人にはまったくないのだから、アルコール依存症とは恐ろしい病気である。
人とのコミュニケーションが苦手という彼女にとって、お酒は力強いパートナーだったという。その気持ちは、とてもとても、わかる。対人関係が苦手な私も、お酒に救われている部分は多々ある。しかし、そんな「味方」がある日、地獄への使者となってしまうのだ。
もう一冊、読んだのは「生きのびるための犯罪(みち)」(イースト・プレス、2012年)。著者は、自身もアルコール依存症に苦しんできた上岡陽江(はるえ)さんと、薬物依存症リハビリ施設であるダルク女性ハウス。
本書に登場するのは、覚せい剤などの違法薬物に「逃避」してきた女性たちだ。そんな彼女たちのライフヒストリーは、やはり壮絶の一言だ。「仲間たちの話」と題された章の中から、二人の女性の話を紹介したい。
小さな頃から父親に性的虐待を受けてきたAさんは、学校でもすさまじいいじめにあってきたという。そんな彼女は、薬物に手を出して刑務所に入れられてしまうのだが、刑務所内での面接で「父親は性的虐待してました」と事前調査の紙に記入したところ、刑務官に「親のことをこんなふうに書いて、いいと思ってるのか!!」などの罵声を浴びせられたという。
「びっくりしたし、ひどいじゃないかって思ったけど、ああ、ここもそういうところなんだなってすぐに思った。どうせ、どこも同じなんだ、って」
どこに行こうとも話を聞いてもらえず、「お前が悪い」と言われる中、募っていくのはあきらめだけだ。こんな悪循環の中、自力で薬物をやめることは至難の業だろう。
また、父親のDV(ドメスティック・バイオレンス)から逃げた母と暮らしてきたBさんは、その後、母による虐待に耐え続ける日々を送ることになる。突然「死んだほうがいい」とわめき、いきなり怒り出し、そして給料が入るとカードで大量に買い物してしまう母。彼女は誰かに「お母さんを助けて!」とSOSを求めたかったのに、誰にも言えない。そんな生活の中、高校生の時に覚せい剤に手を出してしまう。
「唯一の仲間と秘密を共有することで、居場所がほしかったのかもしれない」
気がつけば、自らが売る側になっていた彼女も、やはり逮捕されてしまう。
生きて行くうえでの耐え難い苦しさや痛みを抑えるために、薬物に依存し、そして薬物によってなんとか生きのびてきた彼女たち。しかし、世間から見れば、彼女たちは単なる「犯罪者」に過ぎないという現実。が、そんな彼女たちはダルク女性ハウスにつながり、そして薬物依存=犯罪という視点が、日本ローカルなものだということを知っていく。
きっかけは、数年前にヨーロッパの人権団体OSI(Open Society Institute)が、日本の薬物問題対策を調査しにやって来たことだった。彼女たちはそのOSIによって、薬物依存は「個人の問題として考えるのではなく、まずはコントロールがきかない病気の問題として考えるところから出発する」という「先進国の常識」を知る。翻って、日本では厳罰化され、刑務所にブチ込むだけでその間の治療もなし。そのことにOSIは、「それは人権の侵害ではないか? なぜ誰も裁判所に訴えないのか?」と、仰天したのだという。
ここに、日本社会の「依存症」に関する認識の不足がある。「意志が弱い」「だらしない」などといった「性格」や「人格」の問題として語られがちな依存症だが、「やめられない」ということ自体が、この病気の恐ろしい症状なのである。そしてそんな症状によって、周囲の人間関係や仕事、信頼などをあっさりと失ってしまうから怖いのだ。
「一番たいせつなのは、薬物依存症は病気であるということを、社会的に徹底的に教育すること。二番めに、女性たちが相談窓口に行ったときに、いやな思いをしないように、教育・福祉・医療・司法など関係者の教育を徹底すること」
これはOSIのホームページに書かれていることである。
もちろん薬物だけでなく、アルコールやギャンブルなどの依存症も病気である。「生きのびるための犯罪(みち)」には、「人生の中でほんとうに大切なことは、困ったときに、困っている、助けてほしい!! と言えることだけだと、あたしは思う」という上岡さんの言葉がある。
「あたしを含めて、おとなたちは、自分がつらくても、『困ってる……、助けてください』と、(病気である人もそうでない人も)なぜだかなかなか言い出せない。それはけっして誇れることじゃない、とあたしは思う。そういうあたしも、かつての自分の問題を、だれか、助けて!! と口に出せるまでに、五年くらいかかった」「でも、おなかから声を絞り出すようにして、高いところから飛び降りるような気持ちで、『困っているの』『助けて』と口に出したとたん、ほいきた、と助け舟を出してくれた人がいままでに何人もいたということは、こういう機会に、どうしても伝えておきたいな」
このエッセーを読んでいる人の中にも、自身に起きていることが依存症だと気づかずに苦しみ、周りに迷惑をかけてしまい、自分を責め続けている人がいるかもしれない。あるいは、周りにそういう状態の人がいるかもしれない。
覚えておいてほしいのは、上岡さんの言うように、「助けて」と言っていいし、依存症は治療が必要な病気である、ということだ。今はなんの問題もなくても、いつか自らが、そして大切な人が、ある日突然、依存症の落とし穴にはまってしまうかもしれないのだから。