“揃えられ主人の帰り待っている飛び降りたこと知らぬ革靴”
“孤児たちの墓場近くに建っていた魚のすり身加工工場”
“けいさつをたたいてたいほしてもらいろうやの中で生活をする”
“心とはどこにあるかも知らぬまま名前をもらう「心的外傷」”
セーラー服に身を包んだ黒髪のその人は、人形のように可愛らしくて、声は小さくて、言葉づかいが丁寧だった。
彼女の名は鳥居(とりい)。歌人だ。2013年、掌編小説「エンドレス シュガーレス ホーム」で路上文学賞(ホームレスの人たちが書いた文学作品を対象とした賞)を受賞。14年には短歌で中城ふみ子賞の候補作に入る。冒頭にあげた4首は、彼女の短歌の中で私が特に好きな作品だ。
鳥居の短歌は、彼女の生い立ち抜きには語れない。2歳で両親が離婚。小学5年生の時に母が自殺し、それから児童養護施設で生活してきた。施設内では虐待があり、倉庫に監禁され、食事もロクに与えられず、スープにハエが浮いていることもあった。それを「食べろ」と言われて「嫌だ」というと殴られた。遺書を書くことを強要されたこともあれば、当時刺されたという右足には今も傷が残り、まひがある。学校にも通わせてもらえなかった。
「でも、形だけ卒業したということで、形式卒業者って言うんですけど、そうなってます。ただ、私は卒業したとされる中学の場所も知らないし、敷地に足を踏み入れたこともない。もちろん、先生にも会ったことはありません」
彼女がセーラー服を着ているのは、自身が排除されてきた義務教育を受け直したいという思いから。また、いじめなど様々な理由で学校に通えない子どもたちがいることを、アピールするためでもある。彼女が義務教育を受けられたのは、小学3年生までだ。
“慰めに「勉強など」と人は言ふ その勉強がしたかつたのです”
施設には、虐待によって全身が火傷の跡でただれていたり、人身売買をされた経験があったり、家族がカルト宗教に入っていて人身御供に捧げられそうになったりと、壮絶な過去を持つ子どもたちがいた。関東や中部地方の施設にいたそうだが、施設によっては「他の入所者に自分の出身地を言ってはいけない」などの決まりがあり、それを破ると「反省生活」という罰が与えられた。
「体育館をまず100周走って、そのあと『お前のせいで体育館が汚れただろう』って一人で床掃除をさせられる。見せしめみたいに廊下に机を出されて、休憩時間なしで、ノンストップで勉強し続けたり。反省生活が2週間だったら、その間は他人と口をきいちゃいけない、という決まりもありました」
そんな施設での生活が、のちに鳥居の短歌となる。
“先生に蹴り飛ばされて伏す床にトイレスリッパ散らばっていく”
“全裸にて踊れと囃す先輩に囲まれながら遠く窓見る”
15歳で施設を出た彼女は、16歳から一人暮らしを始める。青果店の品出しなど、様々な仕事をしてきた。が、そんな生活も長くは続かない。親戚に一人、執拗に彼女に嫌がらせをする男性がおり、30分ごとに脅迫電話をかけて来たり、「殺すぞ」と彼女の家の窓ガラスを割って入ってきたり。完全な犯罪だが、警察は「家族のけんか」と取り合ってくれない。18歳未満だったので児童相談所に相談するものの、「児童相談所は児童が相談に来る場所なんだよ。殺されそうになったら走って逃げればいい」と言われる。
命の危険を感じた彼女が逃げ込んだのは、DVシェルターだった。入所者の多くは「ヤクザの奥さんや愛人」。規則は厳しく、大部屋の畳にはダニがわき、そこでぎゅうぎゅう詰めで寝る。入浴は週に3日だけ。ベランダに出ると「銃で撃たれる」可能性があるので、ベランダに出ることもできない。彼女以外の入所者の多くは60代で、「舎弟」のような扱いを受ける。そんな環境の中、「静かな場所に一人で行きたい」とたどり着いたのが近くの図書館だった。
「現実逃避というか……図書館の一番奥の、暗くて人気のないところに行ったら『短歌』『俳句』ってあって」
その時、偶然手にとったのが、穂村弘氏の歌集「シンジケート」(1990年、沖積舎)だった。
“体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ”
この穂村氏の短歌を読んだ彼女は、「大発見をした気持ち」になったという。
「義務教育を受けてないので、短歌をまず知らなかったんですよね。もう宝物を見つけた気持ちになって。みんな、こんなすごいものが世の中にあるの知らないだろうって。すぐに歌集を借りて、DVシェルターの職員さんに『知ってますか? 短歌っていうのがあるんですよ』って言ったら、『ああ昔、国語の授業で習った』って。『でもあまり面白くなかった』って。それで、やっぱり学校ってうらやましいなぁと思いつつ、なんか、短歌の面白さをもっと伝えたいって思うようになりました」
しかし、すぐに短歌を作り始めたわけではない。その後DVシェルターを出た鳥居は、里親さんの家に迎えられることとなった。ずっと「ホーム」がなかった彼女を受け入れてくれた家庭。しかし、里親は「タダで働いてくれる家政婦さん」が欲しかったようだ。彼女が風邪を引いて寝込んだ時、「こんな身体の弱い人だったらいらない」と言われ、追い出されてしまう。そこから彼女は「ホームレス」となった。
「ネットカフェを転々として、でも毎日は泊まれない。部屋を借りようにも、親も保証人もいないので借りるのが難しい。雨が降ってても100円の傘も買えない。2日に1食、80円で売ってるポテトチップスでしのぐとかで、かなり極貧でした」
なんとか保証人なしの外国人向けアパートに入ることができた時、所持金はほぼ底をついたという。
そうして彼女は生まれて初めて、短歌を作り始める。作っている時は「つらい時を思い出して、フラッシュバックみたいになって、飲み込まれそうになる」。しかし、いつしか「感情の波に流されないように構図を決めて、ズームアップさせたりして、冷静にシャッターを切るような感じで」短歌を作る術を身につけていった。彼女の短歌のすごみは、おそらくそこにある。壮絶なことが描かれているのにどこかひどく冷静で、そしてどの短歌も鮮やかに情景が浮かんでくる。
そんな鳥居の歌に多く登場するのが母だ。
「私は母親が好きなんですけど、でも、母親から虐待を受けていて、『死ね』とか言われていたんですね。代々、虐待の連鎖の家系で」
両親から虐待を受けていた母は、娘である鳥居に、自分がどれほどひどい虐待を受けたかを語っていたという。
「私の大好きなお母さんになんてことするんだって、おじいちゃんやおばあちゃんを恨みました。お母さんは精神を病んで寝たきりの状態で、いつも吐いていたし、薬をたくさん飲んで副作用で大変なことになっていたり」
小学生だったある日、鳥居が学校から帰ると、母親は睡眠薬を大量に飲んで倒れていた。どうしていいかわからないまま、彼女は昏睡状態の母と数日を過ごした。ようやく保健室の先生に打ち明けて帰宅すると、母は亡くなっていたという。
“灰色の死体の母の枕にはまだ鮮やかな血の跡がある”
“「死に至るまでの経緯」を何べんも吐かされていてこころ壊れる”
“花柄の籐籠いっぱい詰められたカラフルな薬飲みほした母”
目の前で見た母の死。その後、彼女は友人の自殺も目撃することとなる。
彼女が作る歌の中には、「自殺を止めたい」という思いを込めたものもある。
「頑張って生きろとは言わないけど、でも、死なないでほしいなっていうのは、すごく思います」
しかし、壮絶な経験をした彼女は、なぜそのように思えるのか。もし私が彼女と同じ経験をしたとしたら、果たしてそんなふうに思えているだろうか。問うと、彼女は静かに言った。
「いろいろあったんですけど、愛そうと決めたんですね。19歳の時、10代のうちにやり残したことはなんだろうって考えた結果、私は家族が恋しい、家族に愛されたいと思って。どうしたら愛されるんだろうと思ったら、こっちから愛するしかないんじゃないかって。母は死んでましたし、祖母も認知症になってましたけど、でも、愛そうと決めたんです」
一方、「憎しみ」が創作のモチベーションになっている部分もあるという。
「今まで児童養護施設で虐待にあったって言っても、聞いてもらえなかったんです。でも短歌でこういうふうに注目してもらえるようになったら、やっと聞いてくれる人が現れて。
セーラー服歌人との出会い
(作家、活動家)
2015/09/03