大澤聡編『1990年代論』(2017年、河出書房新社)という本に、原稿を書かせて頂いた。タイトル通り、90年代について論じる本である。
90年、私は15歳。高校1年生で、リストカットがライフワークで、ヴィジュアル系バンドが世界のすべてというバンギャだった。そして99年、私は24歳。フリーターで、東京・中野でキャバクラ嬢として働いていて、右翼団体に入っていた。
今思えば、恥多き10年間だった。そんな10年間にはバブル崩壊があり就職氷河期があり、阪神淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、そして戦後50年があり、薬害エイズ事件をめぐる運動が盛り上がり、新しい歴史教科書をつくる会結成があり、見沢知廉や根本敬が二大巨頭というサブカル全盛期があり、死体写真や違法薬物やタトゥーについての雑誌が売れたりした。
私が右翼になった経緯については、いろんなところで散々書き散らかしているのでここでは詳しく触れないが、最近、90年代にあった重大なことをひとつ忘れていたのに気がついた。何でそのことを思い出したかというと、1年ほど前に引っ越し、その時に本棚の本がシャッフルされ、今、一番目につく場所に、この十数年間存在すら忘れていた本が鎮座しているからである。
その本とは、大橋由美著の『井島ちづるはなぜ死んだか』(2002年、河出書房新社)。
井島ちづる。その存在を知る人は、どれぐらいいるだろうか。1990年代、サブカルの聖地と呼ばれるトークライブハウス「ロフトプラスワン」(東京・新宿)界隈をウロウロしていた人なら知っているかもしれない。彼女はすでにこの世にいない。99年、27歳の若さで生涯を終えた。
彼女を語る時に必ず使われる言葉は「AVで処女喪失」というものだ。彼女はそんな経歴を売りにして、90年代後半の数年、ライターとして活躍した。ロフトプラスワンにもよく出演し、半裸になって、ここではとても書けないような行為の数々をステージ上で繰り広げていた。
そんな彼女との接点が、私にはあった。『井島ちづるはなぜ死んだか』の帯には、以下のような言葉がある。
「宅八郎の妹、鈴木邦男の娘、雨宮処凛のライバルはなぜ死んだ?」
彼女と出会ったのは、私が右翼団体にいて、物書きになる2年前。本当に、ただのフリーターだった頃。ライターだった彼女に「自殺未遂者」の一人としてインタビューを受けたのだ。『井島ちづるはなぜ死んだか』には、この時のインタビューが収録されていて、収録日は98年6月15日とある。私が23歳の頃だ。
彼女のことは、インタビューを受ける前から知っていた。当時、ロフトプラスワンに通いまくっていた私にとって、3歳年上の彼女は「有名人」だったからだ。その頃の私は、とにかく「何者か」になりたくてなりたくて仕方なくて、彼女に激しく嫉妬していた。AVで処女を喪失してライターデビュー、時々ロフトプラスワンに出演し、半裸で振り切ったパフォーマンスだか何だかわからないことをやっている(やらされている)女性。
今考えたら、ひとつひとつが全然羨ましくないキーワードだ。だけどそんな彼女に嫉妬するくらい、私には何もなかった。
何のイベントだったか忘れたが、彼女がある日、舞台上で「自殺未遂者のインタビューをしたくてその対象を探している」という話をした。私は客席にいた一人だった。
その日、イベント後に電話番号を交換したのか、私から電話したのか、彼女から電話がきたのかはわからない。だけど私は彼女に「インタビューを受けたい」と告げたのだ。どうしてか。彼女に好感を持っていたわけではない。嫉妬はしていたけれど、痛々しさも存分に感じていた。ではなぜわざわざインタビュー対象者として立候補したかというと、とにかく「有名」になりたかったからである。
今思えば、そんなことで有名になどなれるはずないのに、自分の自殺未遂ネタを、AVで処女を喪失したという半裸のライターにインタビューしてくれと頼むほど、私は切羽詰まっていた。人生に。
そうしてインタビュー当日、都内の駅で夕方近くに待ち合わせた彼女は、一人ではなく女友達をともなって現れた。
「え、これから自殺未遂っていうものすごくデリケートな話をするのに、友達連れ?」
私はまず、そのことに面食らった。あなたが「AVで処女喪失」という振り切り方をして、ロフトプラスワンで半裸になって、なりふり構わず「私を見て! とにかくどんな方法でもいいから私を認めて!」と叫んでいるように見えたから、私は自分の最大の恥である自殺未遂のことを話してもいいかと思ったのに、友達と一緒なんて……。
何だか、バカにされてる気がした。自殺未遂したなんて女の顔、一緒に見てやろうよ、みたいな感じで呼ばれた友達なのかと思ったから。
軽く傷つく私に一切気づく様子はなく、彼女は「友達ー」と何の悪気もなく紹介すると、自分の部屋で取材するからとマクドナルドに当たり前のように寄った。そこで3人分のセットメニューを買い、そこから延々と、本当にうんざりするほど歩いて歩いて彼女の部屋に着いた。
彼女のアパートは1階で、私のアパートの部屋と同じように駅からクソ遠く、狭くて暗くて陽当たりは悪くて、ユニットバスだった。買ってきたマックを3人で食べて、それからインタビューになったけれど、私はどうして彼女の友達がいるのか、何で全然知らないその友達の前で自分の恥部を話さなきゃいけないのか、それがまったく納得できなくて、だけど「どうしてこの人がいるんですか」「2人だと思ったから話そうと思ったんですけど」なんて抗議する勇気も当然なくて、少し不機嫌な感じでインタビューに応じた。
今でも思う。井島さん、あなたを信じて「インタビューに応じてもいい」って言った人の取材に、友達連れてきちゃいけないよって。だけど私の不機嫌さにまったく気づく様子のない彼女は終始ハイテンションで、何だか自分の友達と私に仲よくなってもらいたがってるようだと気づいたのは、取材が終わってからだった。話してみると、友達はいい人だった。
そうして取材を終えてからも、私たち3人は井島さんの部屋でだらだらとおしゃべりしていた。私も井島さんも彼女の友達も等しく鶴見済著『完全自殺マニュアル』(1993年、太田出版)とか、『別冊宝島』(宝島社)とかが好きな「クソサブカル女」で、話が合わないはずはなかった。だけど3人とも等しく「サブカル知識だけがアイデンティティー」みたいなクソサブカル女だから、会話は時々「自分のほうがこのジャンルについては知識がある」みたいな競争になって、和気あいあいとした感じではなかった。
彼女の部屋の本棚には、入手困難といわれていた『家畜人ヤプー』(1956〜58年に発表された沼正三のSF小説。グロテスクな描写が話題となった)の漫画版があって、思わず「すごい! これ、現物初めて見た!」とクソサブカル女にとって最高級の賛辞を口にすると、彼女はあっさりと「あげる」と言って私にくれた。
「いいよ、貰うんじゃなくて借りるから、返すよ」
何度そう言っても、彼女は頑(かたくな)に「あげる」と言い張って、それから何となく、彼女が処女を喪失したAVをみんなで観ようかという話になった。私はそのAVを観たことなんてもちろんなくて、内心激しく観てみたいと思ったけれど「別にどっちでもいいや」って顔をしていた。そうしたら「やっぱりやめよう」ということになって、内心がっかりした。そうして大分夜も更けた頃、私は彼女の部屋を後にした。
それが、彼女と過ごしたたった1日の記憶。それから1年と数カ月後、彼女は自宅で遺体となって発見された。
訃報を聞いたのは、右翼団体の街宣の日だった。一緒にいた作家の見沢知廉氏(「生きづらいんだったら革命家になるしかない」と私を右翼団体にブチ込んだ張本人。当時、様々なサブカル雑誌に連載を持つ「売れっ子」だった)は、「なんて人生なんだ……」と言って絶句した。私も同じ思いだった。彼女の人生なんて何も知らないのに、「AVで処女喪失」というキーワードだけで、私たちはそんな反応をした。
彼女の死は、もちろんショックだった。だけど、どこかで「やっぱり……」という思いもあった。彼女が死にたがってるのは、なんとなくわかっていたから。「AVで処女喪失」も、その後の振り切ったパフォーマンスも、生きづらさをこじらせまくった果てのものに見えていたから。その時に、漠然と思った。私、右翼に入ってなかったら死んでたな、と。
当時の私は中野のキャバクラ嬢でしかなくて、「右翼」という肩書きだけが、かろうじて私を生かしているようなものだった。何かになりたくてたまらなくて「右翼になった」なんて、今思うと極端すぎる上に、可哀想な選択肢だと思う。だけど、私を必要としてくれる場が、マトモな命の使い道を提示してくれる何かが、喉から手が出るほど欲しかった。
彼女も、似たようなものだったと思う。似ているから、自分を見ているようで嫌いで、「自分もそうなってたかも」「あそこまでするしかないのか」と焦燥感に駆られる存在で、気になって仕方なかった人。