2020年が明けて早々、衝撃的なニュースが飛び込んできた。
それは元衆議院議員・三宅雪子さんの訃報。1月2日、東京湾付近で遺体で発見されたという。入水自殺とみられ、6日になってからメディアで報じられた。
私は三宅さんと親しかったわけではない。集会か何かでお会いした際、挨拶を交わした程度だ。しかし、問題意識が近いと勝手に感じていたし、私の記事などをリツイートしてくれることもあった。その三宅さんが「自殺」と聞いて、目の前が暗くなった。
三宅さんの死をめぐる報道では、彼女がネットでのバッシングや誹謗中傷に悩んでいたらしい、ということも報じていた。詳しいことはわからない。が、親しい人にそんなことを打ち明けていたようで、相当気に病んでいたようである。もちろん、彼女の死の原因はわからない。が、もしネットでの嫌がらせが彼女を追い詰めていた一因だったとしたら。そこまで考え至って、他人事とは思えなくなった。
なぜならこの1年以上、私自身、ネットでの自分に関する批判に悩み続けてきたからである。彼女の死を知って、そしてその背景にネットでのバッシングがあったかもしれないと知って、まず私がしたこと。それは、自分が悩んでいる問題について弁護士に相談することだった。このまま放置していたら、ふとした弾みで取り返しのつかないことをしてしまうかもしれない――。三宅さんの死に、私は「他人事じゃない」と震えた。
どのようなことがあったかを書く前に、私が一番死にたかった時期のことを書きたい。
それは10代後半から20代前半までのフリーター時代。中学時代のいじめを発端として人間不信となり、生きづらさをこじらせていた私は、25歳で物書きデビューするまでずっと自殺願望の塊だった。リストカットを繰り返し、精神科でもらった薬をたくさん飲んで救急車で運ばれ、胃洗浄を受けたこともある。
その頃になると、もう生きづらさの原因なんて分からなかった。ただただ生きてることが、息をしていることがつらくて、自分のことが大嫌いだった。信じられる人なんて一人もいなくて、自分を使い捨て労働力としてしか必要としない社会も大嫌いだった。
そうして、時にそんな使い捨て労働力としてすら、「いらない」と言われてクビを切られた。そのたびにリストカットやオーバードーズをした。何もかもが悪循環だった。そんなふうに世の中への恨みをこじらせまくっていた頃、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。1995年、私は20歳だった。
「世界を燃やし尽くしてやる」と、当時大好きだった筋肉少女帯の歌詞のようなことばかり思っていた私は、サリン事件に興奮し、連日テレビにかじりついていた。私は一連のオウム事件にハマり、オウムに入りたいとさえ思った。なぜなら、もう自分の足りない頭でいろいろ悩んで苦しむより、手っ取り早く誰かに洗脳してほしかったからである。誰にもどこにも必要とされない「こっちの日常」より、オウムの世界観にハマれば「生きる意味」が手に入る気がしたからである。
そうして事件後、私は脱会したオウム信者たちのイベントなどに通うようになる。例えば当時、「サブカルの聖地」と言われたトークライブハウスの新宿ロフトプラスワンでは、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』とオウムをテーマにしたイベントなんかをやっていて、脱会した信者たちも出演していた。
私はそんなイベントに通い、脱会信者たちと仲良くなり、彼らと朝まで語り合ったりした。それまで私の周りには深い話ができる友だちが一人もいなくて、だけど元オウム信者たちとは意気投合した。自分の生きづらさや「生きづらい社会の仕組み」なんかについて思う存分語り合った。
ということを、私は自分の本でも書いてきたし、言ってきた。が、1年ちょっと前、そんな私の当時の発言が切り取られて一気に拡散。大きな批判を受けたのだ。
その発言とは、私がデビューする前、「自殺未遂者」の一人として応じたインタビュー記事である。ある女性ライターのインタビューに答え、私は以下のように語っている。話の流れでオウムへのシンパシーについて問われた時だ。
〈ムチャクチャありますよ。サリン事件があったときなんか、入りたかった。「地下鉄サリン、万歳!」とか思いませんでしたか? 私はすごく、歓喜を叫びましたね。「やってくれたぞ!」って〉
この発言については、本当にバカだったとしか言いようがない。
当時の私は、自分が死にたいことばかりに目が行って、世の中を恨みまくっていた。被害者のことなんて、これっぽっちも考えていなかった。インタビューに応じたのは98年。私は23歳で、自分がその後、物書きデビューするなんて露ほども想像しておらず、どうせ数年以内に自殺するんだろうと思っていた。
しかし、この「自殺未遂者として受けたインタビュー」は、書籍として残ることとなった。なぜなら翌99年、私にインタビューをした女性が27歳の若さで亡くなったからである(この辺りの話については、本連載の「AVで処女喪失したあの子の死 」で読んでほしい:『「女子」という呪い』雨宮処凛著 にも収録されています【編集部】)。そうして2002年、彼女の死について書かれた『井島ちづるはなぜ死んだか』(河出書房新社)という本が出版された。その本に、私へのインタビュー記事が彼女の「生前の仕事」として収録されたのだ。
当時、すでに私は物書きとしてデビューしていた。しかし原稿チェックの段階で、私は自分の愚かすぎる発言を直さなかった。それは書き手が亡くなっていたからで、死後に直すのは何か卑怯な気がしたからである。
それが発言から20年以上の時を経て、ネットで「炎上」したわけである。きっかけはあるライターの方がその記事をネットで引用し、それを別のジャーナリストの方が引用したことで、一気に拡散した。切り取られた言葉は瞬く間に広まり、「許さない」「徹底総括しろ」などの声が私のもとに届くようになり、それは今も続いている。
ことあるごとにその手の発言が引用され、あっという間に1000を超えてリツイートされることもある。切り取られた言葉を見て、「20数年前のデビュー前に自殺未遂者としてインタビューを受けた発言」ではなく、最近の発言と思い込んでいる人もいる。また、その発言をもって、私の講演会に「中止しろ」という抗議が来たこともある。
それに対して私はただただ沈黙してきた。なぜなら、拡散されているのは「デマ」ではないからだ。デマや事実無根のことであれば、いくらだって反論できるし、法的対応ができる。