Ⅱ 「純粋経験」の哲学——西田幾多郎『善の研究』について

西田幾多郎(1870~1945年)
西田幾多郎の哲学を考えようとしたとき、いつも私が最初に思い出す文章があります。それは、『善の研究』の上梓から四半世紀後、その処女作の再刊に当たって、六十六歳になった西田幾多郎が改めて草した、「版を新にするに当って」(1936(昭和11)年10月)という文章です。
「この書において直接経験の世界とか純粋経験の世界とか云ったものは、今は歴史的実在の世界と考える様になった。行為的直観の世界、ポイエシスの世界こそ真に純粋経験の世界であるのである。
フェヒネル〔ドイツの哲学者・心理学者であるグスタフ・テオドール・フェヒナー〕は或る朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛に休らいながら、日麗(うららか)に花薫(かお)り鳥歌い蝶舞う春の牧場を眺め、色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽(ふけ)ったと自ら云って居る。私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考を有(も)っていた。まだ高等学校の学生であった頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考に耽ったことが今も思い出される。その頃の考がこの書の基ともなったかと思う。」『善の研究』岩波文庫
この回想文によれば、西田幾多郎は金沢の第四高等中学校に在籍していた十七歳から二十歳までのあいだに自分自身の哲学の主題を見つけていたということになります。周知のように西田は、その頃通っていた石川県専門学校が、突然第四高等中学校に変わり、「忽ち規則ずくめな武断的な学校に変じた」(「山本晁水君の思出」)ことに反発して、二十歳になる前に高等中学校を中退してしまいます。その後、幾多の試練を通じて禅に出会い、それまでの経験を徹底して反省=思考する形で、四十一歳のときに『善の研究』を刊行し、さらにそれを六十六歳で再刊するまでのあいだ、自分の思想は、一貫して「純粋経験の世界」、言い換えれば、「色もなく音もなき自然科学的な夜の見方」ではなく、その手前にある「ありの儘が真である昼の見方」に導かれてきたと言うのです。
では、西田哲学の核心にあった「純粋経験の世界」とは何だったのでしょうか?
それは、まだ反省が生まれる前の「こと」の世界、言ってみれば、まだ主/客の分割がはじまっていない〝持続的で統一的な有機的世界の経験〟のことを指しています。
たとえば、「或る朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛に休らいながら、日麗に花薫り鳥歌い蝶舞う春の牧場を眺め」ているとき、私たちは、それを眺めている自分が主体で、眺められている対象が客体だと意識しているでしょうか。そうではないでしょう。そのとき私たちは、世界の流れと一体化して「いま、ここ」の出来事を享受しているはずです。主/客の分割が始まるのは、むしろ、その経験からぬけ出した後に、「あれは何だったのか」と反省したときです。そのときになってはじめて私たちは、眺められていたモノの方が客体(客観)で、それを眺めていたモノの方が主体(主観)なのだと考えはじめるのです。とすれば、この世界を成り立たせているのは、主体と客体との関係(自然科学的な主客二元論を含む)というより、むしろ主客を超えて一挙に与えられている「純粋経験」の方だということになりはしないでしょうか。倉田が衝撃を受けた言葉をもじって言えば、「個人(主体)あって経験あるにあらず、経験あって個人(主体)ある」のです。
ただし、哲学者である西田幾多郎は、その主/客(モノ)の分割以前の「純粋経験(コト)の世界」に一気に飛び込もうとしたわけではありません。そこが神秘家や宗教家と、哲学者=西田幾多郎との違いということにもなるのかもしれませんが、いずれにせよ西田は、まずは客体(対象)の世界をめぐって「疑いうるだけ疑って、凡ての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑い様のない、直接の知識を本として出立」しようとします。
たとえば、主体によって対象化された「赤」という色(客体)について考えてみましょう。西田は言います、「色が赤のみであったならば赤という色は現れようがない、赤が現れるには赤ならざる色がなければならぬ」と。確かに「赤」は「青」や「黄」と比べられ区別されてはじめて「赤」として認識されます。が、そこから西田は、さらに問い質します。「赤」と「青」や「黄」が比較され区別されるためには、その根底(背後)において比較対象を貫く「統一的な或る者が潜んで」いなければならないのではないかと。この場合で言えば、つまり、「赤」と「青」と「黄」が区別されるためには、その背後に、「色」という統一的な経験が潜んでいなければならないのではないかということです。
しかも、これは対象化され、区別されうる全ての事象について当て嵌まります。「受動的意識」と「能動的意識」、「働くもの」と「働きを受けるもの」、「昨日の意識」と「今日の意識」など、それらが比較され区別される限りにおいて、それらの根底には必ず両者を統一するある働き(純粋経験)が実在しているのであり、また、その実在(純粋経験)が存在しない限り、私たちは二つのものを区別し、また、対象化することもできないのです。ここに、「統一があるから矛盾があり、矛盾があるから統一がある」「一なると共に多、多なると共に一」という西田特有の逆説的表現が導かれるのです。
かくして、それら多様な知覚とその区別を超えて働いている力、主/客の区別に先立って常に既に働いている「統一作用」のことを、西田は「善」と呼び、その「善」(調和)を直観し、それを維持発展させることのできるものを「人格」と呼ぶのでした。
が、このとき注意したいのは、西田の言う「人格」が、個人的意識を超えた力に媒介されていたことです。西田によれば、人格の統一そのものが、個人の根底にある生命力、自然の力、さらに言えば、宇宙全体の統一力とでも呼ぶべきものに従ったときにこそ現れ出るものだったのです。それゆえ西田は、個人的意識の根底にある〈善=調和〉の作用、また、その作用を支えている宇宙の力のことを、「無」とも「神」とも呼ぶのでした。
果たして、この点においてこそ西田哲学は、西洋の近代哲学と袂を分かつのでした。「疑えない私」に全ての根拠を還元しようとしたデカルト哲学、また、私が私の理性=理念に従うことに「自由」と「道徳」を見いだそうとしたカント哲学、あるいは、その理性概念と経験的現実との弁証法によって進歩を促し、その彼方に〈絶対精神=神〉の実現を望見しようとしたヘーゲル哲学、その全ては、様々なモノを統合していく個人的意識に焦点を合わせながら、その意識作用そのものに「実在」を見出していました。が、逆に西田幾多郎は、個人の意識作用の「根底」に眼を向けると同時に、そこに「無」の働きを、要するに、「我々がまだ思惟の細工を加えない直接の実在」を見出していたのです。
後に西田幾多郎は、自らの哲学の使命について、次のように述べていました。
「形相を有となし形成を善となす泰西文化の絢爛(けんらん)たる発展には、尚(とうと)ぶべきもの、学ぶべきものの許多(あまた)なるはいうまでもないが、幾千年来我らの祖先を孚(はぐく)み来(きた)った東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くといったようなものが潜んでいるのではなかろうか。我々の心は此(かく)の如きものを求めてやまない、私はかかる要求に哲学的根拠を与えて見たいと思うのである。」「働くものから見るものへ」序、『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』岩波文庫所収
繰り返せば、この「形なきものの形を見、声なきものの声を聞」こうとする態度において、西田幾多郎は「全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知る」(『善の研究』)ことを述べていたのです。つまり、対象についてのあれこれの概念(意識的=主体的視点)を捨て去り、私の身を、私の生命——現に今、働いているもの——に任せること、そのことによってはじめて経験されるものが、真の実在としての「純粋経験」だということです。
『善の研究』で語られた〈無の働き=神〉は、後にその実体性や形而上学性を洗われて、より具体的で経験的な「行為的直観」、あるいは「無の場所」と呼ばれることになります。が、この『善の研究』で示された、〈自己を去る〉ことによって見出される「善」の道は、その生涯にわたって探求されていたと言っていいでしょう。「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人ある」のだとすれば、私たちが私たちの〈純粋経験=実在〉に辿り着くためには、まずは個人的な思惟や観念を放下(ほうげ)しなければなりません。そのことによって、おのずから現れ出る直観力、統一力、生命力、自然の力を信じ、それに従うこと。そのエゴを超えようとする努力のなかに、西田幾多郎は、自分自身の「生き方」のみならず、日本人の「生き方(善)」をも見出そうとしていたように思われます。