Ⅲ 「運命」を愛するということ—九鬼周造『偶然性の問題』について

九鬼周造(1888~1941年)
とはいえ、西田の「無の思想」は、その抽象性ゆえに、ともすれば形而上学的原理(一元論的な実体)と見做される危険性がなかったわけではありません。それに対して九鬼周造の哲学は、西田と同じ「無」を語りながらも、その「無」の働き(おのずからの運命)に身を任せるまでの様々な分裂や葛藤(一元論に還元できない偶然性)に眼を向け、その経験を拾い上げようとしていました。言ってみれば、九鬼は、西田の「絶対無」を前提にしながらも(実際、西田は九鬼を評価し、また九鬼も西田を尊敬していました)、そのなかに孕まれる個別具体的な経験、つまり、現実に動き、差異を生み出し、生成消滅するものの偶然性に眼を向け、いかにしてその運命を引き受けるのかを問うていたのです。
もちろん、その思想的差異の背後には、二人が強いられた人生の違いがあります。
明治初期の石川に庄屋の長男として生まれ、その近代的煩悶を何とかして乗り越えて、日本的感性と西洋的概念の分裂と葛藤を日本語のなかに「統一」しなければならなかったのが西田幾多郎(1870~1945年)だったのだとすれば、明治の半ばに男爵家の四男として生を享け、幼い頃の両親の離婚(母との別れ)、親友岩下壮一(カトリックの神学者)の妹への恋心と失恋、八年間にわたるヨーロッパ留学とベルクソンやハイデガーとの出会い、そして、妻との離婚と岩下壮一との死別など、自分の力ではいかようにもし難い偶然的な出会いと別れを「肯定」しなければならなかったのが、九鬼周造(1888~1941年)だったのです。
ただ、それでも注意しておきたいのは、西田幾多郎の「無の哲学」にしろ、九鬼周造の「偶然性の哲学」にしろ、彼らの哲学が、目の前のモノを一つの〈認識=法則=同一性=必然性〉のなかに還元して説明する西洋哲学とは違う方向性を、言い換えれば、西洋的ではない日本的感性に哲学的な言葉を与えることを自分の仕事としていたことです。
では、時間論、偶然性の問題、「いき」をめぐる考察、そして、後には日本語の詩の押韻についてまで論じた九鬼周造の中心にあった課題とは何だったのでしょうか。
たとえば、ラジオ講演録「偶然と運命」のなかで、九鬼は次のように語っています。
「〔お前の教えは〕私どものような片輪までも説きふせなくてはだめだ〔と問うてきたせむし男に対して〕ツァラトゥストラは『意志が救いを齎す』ということを教えたのであります。せむしに生まれついたのは運命であるが意志がその運命から救い出すのであります。『せむしに生れることを自分は欲する』という形で『意志が引返して意志する』ということが自らを救う道であることを教えたのであります。このツァラトゥストラの教は偶然なり運命なりにいわば活を入れる秘訣であります。人間は自己の運命を愛して運命と一体にならなければいけない。それが人生の第一歩でなければならないと私は考えるのであります。」「偶然と運命」昭和11年、『九鬼周造随筆集』岩波文庫所収、〔 〕内引用者補足
ここで九鬼が言っているのは、どんな偶然、どんな過酷な出来事も、まるごと「運命」として引き受け肯定することによってのみ初めて、その宿命のなかで積極的に生きる方法を見出せるのではないかということです。言い換えれば、自分の「運命」に対して、それを人間のちっぽけな理性や概念(必然)によって乗り越えようとするのではなく、むしろ、それを諦め、その「運命」を肯定することによってのみ——まさに「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」です——己の「生き方」を見出せるのではないかということです。
では、九鬼周造は、この身に降りかかってくる数多の「偶然」(出会い)をどう捉え、また、それをどのようにして「運命」の引き受けへと接続していたのでしょうか?
九鬼は、その主著『偶然性の問題』(1935(昭和10)年)のなかで、「偶然性」の概念を、一つの必然性(法則や範疇の同一性)から逸脱した出来事として捉え、それを三つのレベル——①「定言的必然」(論理的必然)から逸脱した「定言的偶然」(論理的偶然)、②「仮説的必然」(経験的必然)から逸脱した「仮説的偶然」(経験的偶然)、そして、③「離接的必然」(形而上学的必然)を支えている「離接的偶然」(形而上学的偶然)に分けて整理していました。後述するように、この三つの「偶然性」は、次第に抽象度が上がっていく偶然性でもありますが、重要なのは、最後の③「離接的偶然」の思考において、ようやく「偶然」は「運命」に接し、私たちの内面性に達するのだという点です。
できるだけ簡潔に、九鬼の論理を辿っておきましょう。
まず、「定言的偶然」ですが、それは「Aは必ずBとして現れる」(A is B)という判断(定言的必然)からの逸脱として捉えられます。たとえば、「三角形の内角の和は180度である」、「三角形とは三辺で囲まれた図形のことである」などの判断は全て定言的=論理的必然性ですが、しかし、三角形という概念において、その角が「直角」か「鈍角」か「鋭角」なのかは三角形の本質とは関係がありません。つまり、三角形の角が「直角」か「鈍角」か「鋭角」であるのかは偶然なのです。あるいはまた、「クローバーは三つ葉である」という判断は、A is Bの判断形式としては「定言的必然」ですが、しかし、四つ葉のクローバーが存在するという事実は、その「定言的必然」からの逸脱(例外)であり、やはり偶然的な事態だと言えるでしょう。これら、概念的に同一の範疇(A is B)に収まらない個物や、例外的な出来事のことを、九鬼周造は「定言的偶然」と呼ぶのです。
ただし、この「定言的偶然」も、距離をとって眺めれば、一つの必然性=因果性=同一性のなかに収めることができます。たとえば、定言的なレベルでは偶然的と見える「四つ葉のクローバー」ですが、因果論的に眺めれば、それも何かしらの栄養過多や天候不順の結果なのかもしれず、その存在を科学的な自然法則のなかに還元することができるでしょう。これが、「もしAならばBである」という判断を伴った「仮説的必然」です。
とはいえ、この「仮説的必然」も、よくよく目を凝らして見れば、その内に二つの因果系列の出会い・遭遇という偶然性を含んでいることが分かります。たとえば、土壌の栄養過多を原因とすれば、「四葉のクローバー」は必然的に説明できるのかもしれませんが、しかし、そのような栄養過多な土壌にクローバーの種が落ちること——栄養過多な土壌とクローバーの種が出会うこと自体は偶然です。出会う理由がないにも拘わらず出会ってしまうこと、そのような出来事のことを、九鬼は「仮説的偶然」と呼ぶのです。
しかし、さらに、この「仮説的偶然」(遭遇・邂逅)も、そこに至るまでの因果を無限に遡れば、いつかはやはり、それも必然だったと言わざるを得ない位相にぶつかることになるでしょう。たとえば、栄養過多な土壌の原因をA—A’—A”—……と際限なく辿っていいき、また、クローバーの種の原因をB—B’—B”—……と際限なく辿っていったとき、その二つの因果系列は、どこかの点で共通の原因Sにぶつかることになります。が、そうなれば、もはやAの因果系列とBの因果系列との出会い(遭遇・邂逅)は全くの偶然だとは言えなくなります。もちろん、その共通原因Sも、たとえばMという出来事と、Nという出来事が出会って(遭遇して)作られたのだと考えれば、再びSがSであることの偶然性が強調されることにはなります。が、さらにそのMとNの因果系列をN—N’—N”—……、M—M’—M”—……と無限に遡行すれば、やはり私たちは、NとMという二つの因果系列のあいだにも、究極の共通原因xを想定することができてしまうのです。
かくして、全ての出来事を包み込んだ〈全体=実体=神〉——スピノザ的な神即自然——が現れることになりますが、この形而上学的な究極原因xを想定した必然性の体系、諸可能性の「全体」(同一性)のことを、九鬼周造は「離接的必然性」と呼ぶのでした。
が、この「離接的必然」(宇宙=神)のレベルに至って、最後に九鬼はこう反問するのです。すなわち、この宇宙(究極原因x)ではなく、あの宇宙(究極原因y)や、その宇宙(究極原因z)が存在してもよかったにもかかわらず、ほかならぬこの宇宙が存在していることそれ自体は偶然ではないのかと。あるいは、もっと端的に、存在しなくてもよかった宇宙が存在していること自体、必然(存在の根拠)なき偶然ではないのかと。
この人間的問いである「なぜ?」の底が抜け落ちてしまう感覚、無くてもよかった宇宙が在るという事実に面して、九鬼は、それを「原始偶然」、あるいは「離接的偶然」と呼ぶことになるのでした。が、このとき決定的に重要なのは、この〈原始偶然=離接的偶然〉は、そのままにして〈究極原因=離接的必然〉でもあったということです。つまり、この宇宙が、いま、ここに、このようにしてあるという必然性自体が、偶然的なのだということです。そして、この意味に満ちた因果の世界が、そのままにして、説明のできない偶然性に支えられているという事実を見た九鬼は、それを「運命」と呼ぶのでした。
「偶然に対する形而上的驚異は運命 に対する驚異の形を取ることがある。偶然が人間の実存性にとって核心的全人格的意味を有つとき、偶然は運命と呼ばれるのである。そうして運命としての偶然性は、必然性 との異種結合によって、『必然—偶然者』の構造を示し、超越的威力をもって厳として人間の全存在性に臨むのである。」
「偶然性の実践的内面化は具体的全体における無数の部分と部分との間柄の自覚にほかならない。孤在する一者はかしこにここにはからずも他者と邂逅する刹那、外なる汝を我の深みに内面化することに全実存の悩みと喜びとを繋ぐものでなければならない。我の深みへ落ち込むように偶然をして偶々(たまたま)邂逅せしめるのでなければならない。」『偶然性の問題』岩波文庫
九鬼の言葉を纏めると、次のように言うことができるでしょう。つまり、圧倒的な「必然—偶然者」としてある宇宙の存在(全体)を、いまここにある他者との偶然的な出会い(部分)のなかに見ることができたとき、人は、それを実存的=全人格的意味での「運命」だと感じ取ることになるのだと。そして、その「運命」の自覚によってのみ人は、いま、ここでの他者との具体的な出会いを、自己の「生き方」の中に引き受けることができるのだと。
これが、出会い=偶然性を「実存の中核」に据えた九鬼哲学の核心であり、また、九鬼周造が『偶然性の問題』を、自らの主著として書かなければならなかった理由でした。