ロヒンギャ迫害停止決議を棄権した日本
2017年8月25日から始まったロヒンギャ(ミャンマー西部ラカイン州在住のムスリム)に対するミャンマー軍による掃討作戦は、収束の兆しすら見えていない。凄惨な「民族浄化」は被害者からの聞き取りによれば、ヘリコプターによる空爆、機銃掃射、民家の焼き討ちという一連の組織的な攻撃によって行われ、60万人を超えるロヒンギャが隣国バングラデシュへの避難を余儀なくされている。その惨状は連載第1回でもルポした通りである。
国際社会も未曽有の人道危機に事態を重く見て動いた。同年11月16日に行われた国連総会では、人権を司る第三委員会において、ミャンマー政府のロヒンギャに対する迫害を非難し、軍事行動を停止するよう求める決議を出した。提案はイスラム協力機構によってなされ、アメリカ、イギリス、フランスも協調、結果としては135カ国の賛成により採択された。しかしである。あろうことか、日本政府はこの採決を棄権してしまう。
在日ロヒンギャのコミュニティーにおけるその落胆ぶりは、見るからに気の毒なものであった。群馬県館林市に暮らすアウンティンはこんなふうに語った。
「私は日本が大好きです。大好きだからこそ、苦労して日本国籍(日本名・水野保世)を取得しました。税金も払い、法律も守る。そして日本の社会のために活動したい。館林の仲間ともいつもそう言い合っています。それでも日本政府の棄権には心からがっかりしました。私がショックだったのは、他の国に暮らすロヒンギャの人に責められたことです。『お前の住んでいる国はいったい何をやっているんだ。我々を見殺しにするのか』と。自分の愛する国を非難されて本当に悲しかった」
1970年代からミャンマー国内で迫害を受け、国外に脱出したロヒンギャの総数は200万人を超えると言われている。諸外国に暮らすロヒンギャはそれぞれにコミュニティーを形成している。アジアではマレーシア、シンガポール、ヨーロッパではドイツ、イギリス、他にオーストラリア、アメリカ、カナダにも居住地域がある。祖国を離れて移住を余儀なくされるすべてのディアスポラがそうであるようにそのネットワークは強固で、当然ながら、故国での迫害には心を痛めている。各々が暮らす国の政府へのロビー活動を行い、ミャンマー政府に向けて攻撃を中止するように働きかけを要請している。情報を交換し、ときには現状を知る者が、他国に赴いてアピールを手伝ったりしている。アウンティンもニュージーランドに出向いて、オークランドでミャンマー政府に対し、ロヒンギャへの弾圧を止めるように街頭演説などの政治活動をしている。
先述したようにロヒンギャ難民が暮らす主要な先進諸国はすべて、国連の決議に賛成した。しかし、アウンティンが終(つい)の棲家として選び、愛してやまない日本の政府は棄権した。
この事実は彼にとって極めて重かった。落胆したアウンティンの顔を見て、私は一つのシーンを思い出した。この秋、茨城県牛久市にある東日本入国管理センターに行ったときのことである。
難民に冷淡な入国管理センター
そこには一人のロヒンギャの青年が収容されていた。本来、迫害を逃れて来た難民は被害者である。にもかかわらず、ここではまるで犯罪者のような扱いをされてしまう。
国外に逃れた人々はまずたどり着いた国で庇護申請をする。正式にその国で「難民」として認められることで、法的な保護と援助を受けるためである。しかし、よく知られることであるが、日本は先進国でありながら、難民認定率が圧倒的に低い。2016年を例に挙げればドイツが26万3622人、アメリカが2万437人を難民認定しているのに対して日本の認定数は28人。認定率にすればドイツ41.2%、アメリカ61.8%、日本は0.3%。日本は難民条約に加盟していながら、認定の基準が国際統一基準と大きくかけはなれており、異常に厳しいことが数値に反映されている。認定がなされず、退去強制事由に該当すると見なされれば入管に収容されてしまう。
収容されているロヒンギャ青年は体調を崩し、内臓を病んでいるという医師の診断書があるにもかかわらず、すでに10カ月にわたって拘束されていた。アウンティンは同胞青年のために身柄の拘束を解いてもらう、いわゆる「仮放免」の申請に動いていた。入管前で待ち合わせ、一緒に受付で衣服を差し入れ、面会に向かった。ガラス越しに見た青年は明らかにやつれていた。アウンティンは悪化しているという体調について聞き、仮放免申請に来たことを告げて、ひたすら励ました。青年は何よりも陽の入らない部屋に閉じ込められていることがつらいと告げた。アウンティン自身も二度入管に収容された経験があり、その気持ちは痛いほどに理解していた。
面会の時間が終了し、仮放免申請手続きに向かう。許可申請書、誓約書……、過去、日本に逃れて来た同胞のために何度も手続きを行っているため、入念に準備された書類は完璧だった。ところが、係官が受け付けられないと言い出した。身元保証人の書類のサインの欄に問題があると言うのである。アウンティンは身元を引き受けてくれる保証人からわざわざ印鑑を捺印してもらっていた。日本の習慣をリスペクトし、すでに何回もその方法で仮放免の手続きを済ませてきたからである。ところが、「これではダメです。手書きのサインでないと受理できません」と言う。過去にそれで受理された実績があることを告げてもまったく聞く耳を持たない。館林から牛久まで、仕事を休んでまた持って来いと言うのか。「過去通用したものが、変更になったのなら、なぜそれを明文化していないのか!」「誰がそれを決めているのか!」あまりの官僚的な態度に短気な私の方が声を荒げ、怒鳴りつけた。しかし、横にいるアウンティンは不満を言うこともなく、じっと耐えている。そして粛々と指示に従う。日本の入管、ひいては法務省のこのやり方に慣れているのだ。
アウンティンは、館林では行政からの信頼も得て、何か事態が動けば市役所に呼ばれてミャンマー情勢についてのレクチャーを行って理解を求め、地域の行事にも積極的に参加して来た。日本が好きという言葉は決してリップサービスではない。
難民条約
難民を保護することを目的とした国際条約。1951年の国連全権会議で締結された「難民の地位に関する条約」(54年発効)と、同条約を補足するために66年に採択された「難民の地位に関する議定書」(67年発効)を合わせて難民条約と呼ぶ。
「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見」を理由とした迫害から逃れて国外に出た者を「条約難民」と定義し、難民の取り扱いに関する人道的基準などを定めている。また、難民に不法入国のみを理由とした刑罰を科すことや、迫害が待つ地域に難民を追放・送還することなどを禁止している。
日本は81年加盟、82年発効。
仮放免
日本の入国管理局に収容されている者について、情状や健康状態などを考慮して収容を停止すること。多くは身元保証人や保証金を伴う申請が必要となる。また、仮放免中は、就労や保険加入、移動などに関して制限がある。